2023年、韓国で『서울의 봄(ソウルの春)』という映画が公開された。この映画は「12.12軍事反乱(12·12군사 반란)」を題材にしている。
全斗煥をモデルにしたチョン・ドゥグァン保安司令官と、張泰玩をモデルにしたイ・テシン首都警備司令官が主役である。
12.12軍事反乱とは、全斗煥や盧泰愚ら陸軍士官学校11期生を中心とする軍内私組織「ハナ会」が起こしたクーデターで、日本では「12.12粛軍クーデター」と呼ばれている。
この事件は、10.26朴正煕大統領暗殺事件がなければ起こらなかった。つまるところ、”新軍部”こと全斗煥政権が誕生することもなかった。そういった意味でも、10.26は韓国の現代史を大きく転換させた事件だった。
10.26は、事前に誰にも打ち明けられることなく、金載圭が単独で起こしたものだったが、対照的に、12.12は組織的犯行だった。
上命下服の軍内で、軍人が上官に反乱を起こして、逮捕あるいは銃撃したのである。こういったことを可能としたのは、それだけ「ハナ会」の結束が強かったからだ。軍内の私組織は本来なら御法度であるが、ハナ会の強みは、その後見者である”代父”が、朴正煕・朴鐘圭1朴正煕政権時代の大統領府警護室長・尹必鏞といった権力者たちだったことだ。
軍事独裁国家において、クーデターに成功して軍部の実権を握ることは、次の統治者の誕生を意味していた。
12.12の核――ハナフェ
ハナ会は陸軍士官学校が4年制となった11期生以降のメンバーで構成されている。公開されたハナ会の名簿には、11期から36期生までの250名が在籍していたことが分かっている。一期のうち、約6%がハナ会の所属だったとされる。
ハナフェの顔ぶれ
11期生は陸軍士官学校が4年制になってから最初の1期生であることから、自分たちこそ正規の陸軍士官学校1期生だという自負心があり、エリート意識が強かった。ハナ会はそういった意識の高さから生まれ、要職に就くことを目指した政治将校たちだった。しかし皮肉にも、結果的にハナ会の中心となったのは、士官学校時代に成績不振だった全斗煥だった。
11期生のうち、全斗煥・盧泰愚・金復東・崔性澤・朴秉夏の5名が、将軍となることを目指して、「五星会」を結束した。朴秉夏は11期生として卒業できなかったが、他の4名――全斗煥・盧泰愚・金復東・崔性澤はいずれも後に”星”を付けた2将軍になるという意味。将官級の階級章が★であることから。。
1962年に、五星会は新たに孫永吉・權翊鉉・鄭鎬溶の3名が加わり、「七星会」となった。この頃には、金復東が脱会し、白雲澤が加入したとも言われる。
その後、盧正基と朴甲龍が合流し、金復東が復帰して”10メンバー”となった。ハナ会はこの10メンバー――全斗煥・盧泰愚・孫永吉・金復東・崔性澤・權翊鉉・鄭鎬溶・盧正基・朴甲龍・白雲澤を中心に結成された。
その名称は当初、一つの心を意味する「一心会」であったが、すぐに「ハナ会」に改称された。
ハナ会は、メンバーが加入する際には、料亭あるいは全斗煥の私邸で、マフィアのような宣誓儀式を行なった。
加入者は右手を突き出して、以下のような宣誓文を朗読した。
一.国家と軍のために忠誠を尽くす
一.先輩後輩と同僚によって合意された命令に服従する
一.会員相互間で競争しない
一.義理と誓約に反した場合、人間としての資格を剥奪されることを覚悟する
当初、12期と13期からは加入者がいなかったため、ハナ会の創設期は11期と14期生で構成されていた。のちに加入した12期生のうち、”スリー朴”と呼ばれた朴俊炳・朴煕道・朴世直が出世を争った。
17期生からハナ会は全盛期を迎えた。14期の李鍾九と17期の金振永は、全斗煥とともにハナ会の三大ボスだった。
16期には、全斗煥政権時代に国家安全企画部3中央情報部の後身組織。全斗煥政権時代から始まり、金大中政権時に権限を縮小されて国家情報院となり、現在に至る。長を務めて権勢を振るう張世東がおり、17期には、頭脳明晰で知られる許和平と、12.12で鄭昇和を連行した許三守がいる。
11期の10メンバーはハナ会の核であったが、その全てが12.12に加担した訳ではなかった。11期生のうち、全斗煥と双璧だった孫永吉は尹必鏞事件に巻き込まれて粛清され、金復東は全斗煥と争うようになり、ハナ会からは距離を置くようになっていた。
代父・尹必鏞の盛衰
尹必鏞はハナ会の代父として知られている。彼は5.16軍事クーデターの主体メンバーではなかったが、朴正煕の相談役を務めていたことから、政財界の人士たちが彼と繋がりを持とうと挨拶に行くようになり、甚だしくは、軍の上官までもが尹必鏞を詣でるほどの権勢を振るった。
尹必鏞は正規4年制の陸士11期生たちこそ、国を背負って立つ軍人になるべきだと考え、彼らを支援し、可愛がっていた。
しかし、出る杭は打たれるもので、尹必鏞は失脚した。
1973年3月、朴正煕大統領はニューコリア・カントリークラブでゴルフを楽しんでから、クラブハウスで休憩中に、申範植ソウル新聞社長から「側近たちが閣下の退陣の話をしている」という話を聞いて激怒した。
朴鐘圭青瓦臺警護室長の調査報告によると、1972年10月末、申範植社長はソウル市内にある漢南洞の料亭に何人かを招待した4金忠植・著『実録KCIA―南山と呼ばれた男たち』によると、料亭は鍾路区にあった『梧珍庵』で、招待者は李厚洛とされており、申範植主催の会合とはメンバーも異なっている。。その席で、尹必鏞首都警備司令官が李厚洛中央情報部長を「兄貴」と呼んで「閣下が老衰される前に青瓦臺を退かれるように」「後継者には兄貴がいるじゃありませんか」と持ち上げたというのだ。
尹必鏞は反逆罪の容疑で逮捕、粛清された。
権勢を振るう李厚洛と尹必鏞を、朴正煕大統領以上に警戒していたのは朴鐘圭だった。
後ろ盾を失い、全斗煥は一見して危機を迎えたように見えたが、彼の後見人は尹必鏞だけではなかった。実は全斗煥は既に尹必鏞の越権について、朴鐘圭青瓦臺警護室長に報告していたのだ。朴鐘圭が事件を捜査していた姜昌成5尹必鏞事件を捜査し、ハナ会を除去しようとしたこと、全斗煥の政権欲を批判したことで恨みを買い、のちに贈収賄の容疑を掛けられて服役させられ、三清教育という拷問懲罰を受けた。陸軍保安司令官に何度も電話で「全斗煥と盧泰愚は関係ない」と擁護したことで、全斗煥らは連座を免れることができた。
この事件で墜落したのは、11期生及びハナ会の中心人物だった孫永吉の方であった。彼は首都警備司令部の参謀長を務めていたことで、クーデターの首謀者と見なされたのだ。孫永吉が粛清されたことで、全斗煥はハナ会の中心に躍り出ることができたのである。
10.26事後の動向
1979年10月26日午後7時40分を過ぎたころ、首都警備司令部第30警備団長・張世東中領6中佐に当たる階級。以下、少領・中領・大領は少佐・中佐・大佐に該当する。領官=佐官級。は景福宮内にある団長室で銃声を聞いていた。彼はすぐに宮井洞にある安家に向かい、様子を窺った。銃声の報せはハナ会の将校たちにも伝わった。
朴正煕大統領の”有故”と、犯人が金載圭であることが判明すると、鄭昇和陸軍参謀総長は全斗煥陸軍保安司令官を呼び、金載圭を逮捕したのち、事件の捜査を行なうよう指示した。この時、鄭昇和が金載圭を「丁重に扱うように」と言ったことを7鄭昇和は、犯人を刺激しないためだったと主張している。、全斗煥はのちに問題にして12.12を起こした要因とした。
保安司令部貞洞工作分室に金載圭が連行されると、許和平保安司令部秘書室長から全斗煥保安司令官に「金載圭が大統領弑害犯であることは間違いない」という報せが入った。
1979年10月26日夜に釜山にいた李鶴捧中領は急遽上京して、金載圭の捜査担当となった。捜査の過程で、金桂元青瓦臺秘書室長だけではなく、鄭昇和も金載圭に招かれて、事件現場にいた事実が判明した。鄭昇和は戒厳司令官に任命されたばかりであった。
全斗煥合同捜査本部長の登場
1979年10月27日に非常戒厳令が宣布され、全斗煥陸軍保安司令官は、朴正煕大統領射殺事件の合同捜査本部を起ち上げた。
翌28日に、事件捜査の中間発表のため、記者会見を行なった。この時、全斗煥の存在が初めて公に知られることとなった。
全斗煥は、1931年に慶尚南道陜川郡で出生したが、幼少期のうちに大邱に移住し、学生時代を過ごした。
彼は子供時代から腕白で、ケンカをしては拳で解決するタイプであった。サッカーが得意で、ポジションはゴールキーパーだった。
ケンカが強く、肝の据わった性格だったので、仲間を作っては、親分になった。
1951年に陸軍士官学校に11期生として入学する。
士官学校時代も全斗煥は同期生たちのリーダー格であり、サッカーの試合では実力を発揮した。一方で彼は、成績が思わしくなく、いつも居残り組だった。それどころか、退学寸前だったという話まである。
全斗煥は、テレビでボクシングの試合を朴正煕大統領と観戦し、解説をしては大統領を喜ばせた。彼は、のちに12.12と光州事件で裁かれ、被告人の立場となるが、この法廷においても、速記を務めていた女性を笑わせるような男だった。いずれも、人心掌握に長けていたというエピソードである。
中央情報部の失墜
中央情報部の局長ら幹部たちが西氷庫分室に次々と連行された。
情報部の次長だった尹鎰均は、鄭昇和陸軍参謀総長から部長代行を命じられたが、全斗煥保安司令官から頼まれて、情報部の職員たちを逮捕拘束する役割を負った。
情報部の職員たちは西氷庫で殴打され、機密を明け渡さざるを得なかった。絶大な権力を持っていた情報部の機能は、こうして失われた。
その後、陸軍士官学校8期生の李熺性が情報部の部長代行に就任したが、これも一時的なものでしかなかった。
故・朴正煕大統領の国葬
1979年11月3日、故・朴正煕大統領の国葬が行なわれた。
朴正煕の亡骸を納めた棺は、ソウル市銅雀洞にある国立ソウル顕忠院にて、先に亡くなった妻・陸英修の隣りに埋葬された。
残された二人の娘・朴槿恵と朴槿映8現在は改名して「朴槿令」と称している。は、青瓦臺を去り、ソウル市中区新堂洞にある私邸に移って行った9この頃、長男・朴志晩は陸軍士官学校に在籍していて、青瓦臺にはいなかった。。
短すぎたソウルの春
11月6日、金泳三新民党総裁は「第三共和国憲法に立ち戻ることを原則とし、改憲したのち、大統領を国民による直接選挙で選ぼう」と主張した。
10日、崔圭夏大統領代行は「現行の憲法に従って期日内に大統領選挙を実施し、選出された大統領は早急に憲法を改正して、その憲法に従って選挙を実施しなければならない」という談話を発表した。
国民はこの宣言に民主主義の到来を予感して歓迎した。
17日には、与党の金鍾泌共和党総裁が、野党の金泳三新民党総裁を初めて訪問するという異例の事態が起こった。
この時期、国民は賭け事すら自粛し、犯罪件数も少なくなっていた。それほど民主化への期待感が高まっていたのだ。
1979年12月6日、第10代大統領選挙を通じて、統一主体国民会議で選出された崔圭夏が大統領に就任した。
鄭昇和は維新体制を批判したのか
全斗煥・盧泰愚・黄永時はいずれも、11月24日に開かれた戒厳指揮官拡大会議の席で鄭昇和陸軍参謀総長が発言したとされる維新体制批判に憤ったと主張する。黄永時は1996年の12.12に対する裁判で、被告人として、怒りを交えながら、次のように話した。
79年11月24日、戒厳指揮官拡大会議が開かれました。その席で鄭昇和陸軍参謀総長が、「10.26は不幸な事件であったが、国家的観点から見れば、決して不幸な出来事ではない。維新体制は間違っていた」という発言をしました。それを聞いて、第2軍司令官、第3軍司令官、そして陸軍士官学校校長などが皆、腹を立てました。維新体制が始まった時は、祖国の近代化のためにはそれ以外のことには目を瞑り、維新に邁進すべきだと言って支持しておきながら、数年後に大統領が死ぬと、それを否定したのです。そんなことでどうやって部下たちを精神教育できますか。皆が反発しました。鄭総長が説得しようとしましたが、上手く行かず、昼食でもとりながら話そうということになりました。それで会議は途中で終わり、解散しました。
黄永時は、場が収まらなかったと話すが、鄭昇和は次のように否定しており、証言は食い違う。
その会議で、私が朴正煕大統領を貶めるような発言をしたといったことはありません。和気藹々と会議は終わり、国立墓地を参拝しました。ただ当時、李建榮将軍が会議の途中で「維新憲法は絶対に守らなければならないと言ってきたのに、今になってそうではないと言わなければならないので困っている」と言うので、私が「何、そんなに深刻に考えることもない。朴大統領は有史以来類例のない優秀な方だったので、そうしたのであって、朴大統領が亡くなられた以上、必要なくなったと言えばいいではないか」と言ったことはあります。全斗煥被告側の主張は嘘です。
鄭昇和の憂慮
鄭昇和はハナ会の存在を憂えてはいたが、自身が宮井洞の現場にいたことが負い目となり、大きな行動に出られずにいた。
金桂元青瓦臺秘書室長を取り調べる過程で、青瓦臺の金庫から帳簿に記載されていない現金9億ウォンが発見された。全斗煥はそのうち、6億ウォンを朴正煕の長女・朴槿恵に渡し、1億を捜査費用に充て、残った2億を鄭昇和に渡した。鄭昇和は、全斗煥が青瓦臺のカネを勝手に動かすことに対して注意を与えた。しかし、大統領令嬢に渡した6億ウォンを今さら返せというのも気が引けたため、「今回は大目に見よう」と言って、渡してきた分を銀行に預けておくように伝えた。盧載鉉国防長官にこの件を報告すると、盧長官は「あれ? 私のところにも5千万ウォン持って来たのだが」と言うので、鄭昇和は全斗煥がもっと多額のカネを処理したのではないかと訝しんだ。
この時、鄭昇和が預けるように伝えたカネは、彼が逮捕連行された後に全斗煥が引き出して使っていたという。
純粋な軍人だった鄭昇和は、全斗煥が政治やカネにまで介入することに警戒心を抱いた。
一方で鄭昇和陸軍参謀総長は、金大中に対しては「大統領の座に容共の疑いがある人が座ってはならない。金大中がそうだ」と、報道各社の前で名指しで批判している。鄭昇和が、あえて政治問題に口を出さずにはいられないほどには、金大中は警戒されていたのだ。
12月9日、泰陵ゴルフ場で、鄭昇和は盧載鉉国防長官に、全斗煥陸軍保安司令官を更迭するように進言した。
参考文献
- 金在洪 著・金淳鎬 訳『極秘 韓国軍 知られざる真実―軍事政権の内幕(上)』光人社 1995年 【】
- 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【】
- 趙甲濟 著・黄民基 訳『別冊宝島89 軍部!』JICC出版局 1989年【】
- 嚴相益 著・金重明 訳『被告人閣下―全斗煥・盧泰愚裁判傍聴記』文藝春秋 1997年【】
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【】
- 나무위키 namu.wiki/12.12 군사반란
- 나무위키 namu.wiki/하나회