金載圭伝(六)民主主義不成恨

公判時の金載圭 ©경항신문사

権力者から背信者へ

 1979年10月26日、金載圭キムジェギュ中央情報部長は、宮井洞安家クンジョンドンアンガナ棟1B棟や2号棟のような意味内で開かれた晩餐の席で朴正煕パクチョンヒ大統領と車智澈チャジチョル警護室長に向けて引き金を引いた。

 彼は一夜にして、権力者の座から、大統領弑害犯に転落した。

氷庫ホテルでの手荒いもてなし

 ”南山ナムサン”こと中央情報部は、朴正煕軍事独裁政権下における恐怖政治の象徴的組織だ。ここに、多くの反政府人士あるいは、その疑いを掛けられた者たちが連行され、拷問を受けてきた。
 陸軍保安司令部・西氷庫ソビンゴ分室は、通称”氷庫ホテル”とも呼ばれ、ここも南山同様に、反政府人士たちが連行され、拷問を受ける恐怖政治の場として知られている。

 陸軍保安司令部と中央情報部――この二つの組織両方の長を務めたのが金載圭だった。対外的にも悪名を轟かせていたKCIAこと韓国中央情報部は大統領に次ぐ権力を持つ機構であり、彼はその長であった。
 その金載圭が、今は被疑者として捕らわれ、作業着に着替えさせられて西氷庫分室にいる。

「おい、金載圭! 正直に吐け。どの部隊を動員してくるんだ? 我々も知らなかったら降伏もできないじゃないか」
 申東基シンドンギ捜査官は金載圭を呼び捨てにし、ぞんざいな言葉使いで問い詰めた。この瞬間、金載圭の立場は墜落した。

 金載圭は30分もの間、殴打され続けた。彼は椅子から転げ落ちるたびに、自分で椅子を立て直して、姿勢を正して座った。

 金載圭は控訴理由補充書に次のように書いている。そこには、彼が西氷庫で受けた拷問の様子が窺える。

――27日明け方、西氷庫に連行されるや否や、捜査官たちは本人2金載圭の全身を手当たり次第に殴打し、その上、EE8電話線を指に巻いて電気拷問まで行ないました。このような拷問が何日間続いたか分かりません。何度も失神して、捜査官たちに、このまま死んだらこの姿で故郷に運ばずにソウルに埋めてくれと遺言までしたことがありました。元々、肝臓が悪い本人は止血ができないため、体が皮下出血で真っ赤になり、その痕が今でも残っています。生ける屍さながらでした。

 金載圭が全身に皮下出血を起こしたため、捜査官たちが怖気づき、国軍ソウル地区病院の金秉洙キムビョンス院長が呼び出されて診察させられたこともあった。

 現場検証時、金載圭は時折顔を痙攣させ、指に絆創膏を巻いていた。これが電気拷問の痕跡だと指摘されている。また、公開された写真では、目の上に痣が見られた。

金載圭、最後の闘争

統制下の法廷

 金載圭は内乱罪および内乱目的殺人罪で起訴された。彼は民間人の身分でありながら、京畿道キョンギド南漢山城ナマンサンソンにある陸軍矯導所3刑務所に収監された。
 胸に「101」という番号が入った白いチョゴリ4韓服の上衣に、灰色のパジ5ズボンという韓服を着て、コムシン6ゴム靴を履いていた。それが彼の囚人服姿だった。 

 金載圭の家族から私選弁護人を引き受けた金正斗キムジョンドゥ弁護士は、太倫基テユンギ姜信玉カンシンオクら21名と合同弁護団を結成した。このうち最も金載圭と面会した弁護士が姜信玉だった。姜信玉はこの時初めて金載圭に会ったが、彼はのちに金載圭の名誉回復運動を中心的に行なうこととなる。

 金載圭は姿勢を崩さず、落ち着いた態度で話した。自身の動機を説明する時は身振り手振りを交えて、声高に主張した。彼は弁護団の前で、自身の動機――自由民主主義の回復を唱えた。弁護士たちは感銘を受け、涙を流す者までいた。
 面会を重ねるうちに、法廷では話さなかった朴大統領の家族関係のことも打ち明けるようになり、セマウム救国奉仕団の崔太敏チェテミン総裁を厳しく批判した。

 金正斗弁護士は、軍法会議に民間人である金載圭を裁く権利はないと裁定申請をしたが、戒厳令下であるという理由で大法院7最高裁判所によって却下された。

公判時の金載圭(左から二番目)

 1979年12月4日、10.26朴正煕大統領射殺事件の初公判が開かれた。事件が発生してから39日が経過していた。
 金載圭は革の手錠を嵌めて入廷した。裁判中は、手錠を外された。

 法廷の様子は外部のモニターで監視されていた。たびたび外部からのメモが裁判官に渡され、裁判が制御されていることは明白だった。金永先キムヨンソン裁判長が個人的に弁護士と会って、裁判を早く終わらせるように協力を要請することもあった。

 金載圭は、悪化した肝硬変により食事も満足に摂れないほどだった。裁判中は頭痛と吐き気を訴えて、僅かな休廷時間には体を横たえていたが、裁判が再開すると立って陳述し、毅然とした態度を崩さなかった。
 聴覚障害のせいか、質問に対して訊き返すことがあった。大統領を射殺する場面を再現する時は身振り手振りを交えて話した。裁判部から発言の制止を受けることも度々見られた。
 座っている時も姿勢を正していた。時折、長く伸びた前髪をかき上げ、襟を整える仕草を見せた。日によっては無精髭が生え、憔悴した様子だった。
 部下たちは法廷でも、金載圭に対して礼を正し、挨拶を交わしていた。

 第4回の公判では、金載圭が私選弁護人による弁論を拒否する一幕もあった。金載圭のこの行動は、身内が拘束されており、脅迫を受けていたことによるものだった。

 当初から金載圭の国選弁護人として指定されていた安東壹アンドンイルは、私選弁護人の後を引き継いで金載圭に面会した。彼は、金載圭の第一印象を次のように語っている。

「白い韓服にコムシンを履いて、革手錠を掛けられていました。160cm余りの小柄な体でしたが、堂々としていました。肝硬変で顔は黒く、捜査の過程で拷問を受けて、赤黒い皮下出血がありました。右耳はよく聴こえていませんでした。彼は礼儀正しかったですね。大きな数珠玉を転がしながら話していました。面会を重ねるごとに、真心を感じました」

 金載圭は安東壹の手を握りながら、「部下たちには何の罪もない。私よりも部下たちの弁護に尽くして欲しい」と訴えた。

 1979年12月12日、全斗煥チョンドゥファンをはじめとする軍内私組織「ハナフェ」を中心とした軍人たちが軍部内でクーデターを起こして実権を握ったことで、金載圭の運命は、彼にとって最も望まぬ方向に向かって行く。

 12月18日、金載圭は最終陳述を行なった。この陳述は暫く非公開であったが、のちに公開され、感銘を受けた韓国人は少なくなかったようだ。

 12月20日、第1審で、金載圭・金桂元キムゲウォン朴興柱パクフンジュ朴善浩パクソノ李基柱イギジュ柳成玉ユソンオク金泰元キムテウォンの7名に死刑判決が下された。現役軍人であるために刑が確定した朴興柱を除く6名が控訴した。

 年が明けた1980年1月、金載圭は弁護士との面会で、朴正煕大統領の女性問題について詳しく話した。朴善浩が法廷でこの問題に触れようとする時は制止したが、この日は妊娠した女性の事後にまつわる話や、大統領の子息・朴志晩パクチマンの素行不良、そして朴槿恵パククネが関わった救国奉仕団と、その総裁である崔太敏の問題にまで言及した。
 1月28日、金載圭は自筆で控訴理由補充書を書いた。その中には、朴槿恵と救国奉仕団についても触れられていた。その指摘は、のちに起こる崔順実チェスンシルゲート」と朴槿恵大統領の弾劾を予言するかのようだった。

 一方で金載圭は、金炯旭失踪事件について自分は一切関わっていないと関与を否定した。この件については、合同捜査本部も調査していなかった。

不正蓄財リストの真偽

 合同捜査本部は「金載圭が不正な蓄財蓄妾を行なっており、普門洞ポムンドンにある自宅から100点以上の古美術品・貴金属類・高級時計などを押収した」と公表した。
 押収品目の中に、1950年代から人気を博していた女流画家・千鏡子チョンギョンジャの作品『美人図』も含まれていたとされるが、のちに千鏡子自身がこの絵を見て贋作だと発言したことで、論争を巻き起こした。その押収品リストが不正に作成されたものではないかとの疑惑も持ち上がっている。
 金載圭を知る関係者は口を揃えて、そもそも彼の住宅には100点にも及ぶ贅沢品を保管できるようなスペースはなかったと証言している。
 また、合捜部は「厨房には大量の肉を腐らせたまま置いてあり、自宅に勤務している警備員や運転手に食事を与えなかった」とも発表しているが、金載圭の自宅の管理人だったチェ・ジョンデは「憲兵が家宅捜索に来たが、むしろ高級品が一つもなかったから、『ここは情報部長の家で合っているか』と尋ねられるほどだった」と、これら合捜部の発表を否定した。

 金載圭は「国庫に取り上げられるような不当な財産はない。十億ウォンくらいの財産を、部下の家族――子供を中心に分けてあげたい」と話した。そして、一人娘・壽英スヨンのために贈ったピアノまで財産献納品目に含まれていることに不満を訴えた。しかし、押収品目のリストには、なぜかピアノは含まれていなかった。

 2月26日の面会で、金載圭は財産献納書について「今度脅迫してきたら、舌を噛み切って死んでやる!」と興奮した様子で言い放った。金載圭の妻・金英煕キムヨンヒと、弟・金恒圭キムハンギュが西氷庫に連行され、拷問を受けて財産献納を迫られていたのである。

仏教に精進した獄中生活

 獄中生活は金載圭の生涯にとって最も静寂な日々だった。彼は仏教に帰依し、禅の心をもって般若心経を唱え続けたという。

 2月5日の面会で、金載圭は姜信玉弁護士のノートに絵を描きながら、12月に見た夢の話をした。
「西から東にかけて二十二本の虹が見えたんだ。二十二を縦に書いてみろ。『王』という字になるではないか」

 2月26日には、姜信玉のノートに、3軍団長を務めていた1973年に詠んだ漢詩『丈夫恨チャンブハン』を書き記した。

姜信玉のノートに書かれた金載圭の漢詩


 3月12日の面会では、尋問を受けている最中に詠んだという漢詩を披露した。

平生大事一朝成
雲水行脚今後事
成佛得道大哲願
既心成就今生中

 金載圭は、自身に批判的な人々に対する不満を訴えた。
「雀がどうして大鵬の志を分かるのだ」
「民心はすなわち天の心だ。下手な小細工で騙そうとすれば大事が起きる。自由民主主義は天の声だ。国民を侮るな。国民を侮る者こそ愚か者だ」
 そして再び夢の話をした。
「虎が尻尾で私の目を叩いた。橋の下に小屋を建てて住む盲人を見た。南無阿彌陀仏観世音菩薩」

 金載圭は『金剛経』を引用して「何事にも妄想を抱いてはならぬ」「心を治めてこそ万物から自由になれる」と説いた。そして「私は既に聖人の境地にいる」と話した。

 金載圭が仏教徒だったのは、母・權有今クォンユグムの影響だった。
 彼は『私と自由』という詩を母親に渡すように弁護士に託していた。

私と自由

私をもし神と呼ぶなら、自由の守護神と呼ぶだろう
私をもし人と呼ぶなら、自由大韓の国父と呼ぶだろう
私の命ひとつ捧げて、独裁の牙城を崩したのだ
私の命ひとつ捧げて、自由民主主義を回復したのだ
私が愛する三千七百万の国民に、自由を探して取り戻してあげたのだ
万歳、万歳、万々歳
10.26民主回復国民革命万々歳
10.26民主回復国民革命万々歳

 厳格な母親は、息子に対して潔く死を受け入れるように説いた。
いにしえであれば天子にも値する大統領を殺めたお前が、なぜ生き永らえようとするのか」

死刑判決確定

 大法院の判事のうち6名は、この事件は内乱罪ではなく、金載圭による単純殺人事件だと意見した。内乱目的であれば、相当広範囲の組織的な謀議がなければ成立しないという見解だった。しかし、それらは少数意見だった。判事の中には、西氷庫分室に連行された者もいた。

 金載圭は、部下たちは自分の命令に従っただけなので死刑だけは免じて欲しいと訴えたが、その願いは聞き入れられなかった。金載圭・朴善浩・朴興柱8朴興柱は現役軍人であるために、1審で死刑が確定し、大法院の判決が下された時点では既に銃殺刑に処されていた。金載圭は朴興柱が処刑されたことを知らなかったという。・李基柱・柳成玉・金泰元の6名が死刑判決を受けた。金桂元は無期懲役に減刑され、宮井洞安家職員で直接殺害に関与していない劉錫述ユソクスル徐永俊ソヨンジュンが、それぞれ証拠隠滅罪と脅迫罪で懲役3年の実刑判決を受けた。

最期の時

救命運動

 在野人士たちの間でも、金載圭に対する評価は分かれた。朴正煕維新体制のナンバー2に当たる中央情報部長だった金載圭を民主化の英雄とする向きに、少なからず疑問の声もあった。

 その中で、金載圭の救命運動を行なった、最も強い影響力を持った人物が尹潽善ユンボソン元大統領だった。10.26事件被告の家族たち、さらに良心犯家族協議会や救命委員会が、金載圭と部下たちの助命を訴え、署名活動も行なわれた。
 4月5日、1500名分の署名を添付した救命請願書が、弁護団を通じて、崔圭夏チェギュハ大統領・李英燮イヨンソプ大法院長・李熺性イヒソン戒厳司令官にそれぞれ提出された。しかしこれらの運動は、当時報道されることはなかった。

家族との面会

 5月20日、大法院が上告を棄却し、金載圭らの死刑判決が確定した。 

 23日には、午前と午後に分けて家族が総出で面会に来た。朴正煕大統領を狙撃した文世光91974年8月15日の光復節記念式典で、在日韓国人の文世光が朴正煕大統領を狙撃した。この時、警護室職員との銃撃戦の最中に陸英修女史が被弾して死亡している。の刑執行が、大法院の死刑判決から三日後だったこともあり、金載圭は自身の死刑執行が翌日になされることを予感していた。

 金載圭は面会に来た家族に、自分が死んだら軍服を着せて指揮棒を持たせて棺に納め、自身と部下たちを同じ場所に埋葬するように遺言した。
 また彼は、自身への刑執行が民主化運動を触発すると予言した。そして、赤化10共産主義だけは防がなければならないとも懸念した。
 金載圭は「私は肝臓が悪いので、自然死しても、この先7~8年以上は生きられないだろう。後世の人々から死に際をよく見極めたと評価されたい」と話した。

 母・權有今は声を詰まらせながら、般若心経を唱えた。金載圭は母を椅子に座らせて、三度クンジョル11目上の人に対して跪いて額を地に近づける最上の礼。を行なった。
 金載圭は首に掛けていた数珠を妻・金英煕の首に掛けた。

 金載圭は親族たちに日本語で「執行は明日の午前10時頃ではないのか」と尋ねたが、彼らは知る由もなく、また来週に来ると答えるしかなかった。

 午後には弟・金恒圭が家族を連れて面会にやって来た。拘束されていた金恒圭は、10.26事件以降この日初めて兄と顔を合わせた。
 建設業を営んでいた金恒圭は、兄が起こした事件によって西氷庫で拷問を受けた末に財産を国家に献納する署名をさせられていた。彼は少なからず兄に対する不満を抱いていたようだ。
「兄貴が事件を起こす十日前に私が訪ねて行ったら、大統領がお好きだから日本のビデオを買って来いと言っていたじゃないですか。閣下のことをあれほどまでに考えていた兄貴がすっかり変わってしまって、閣下を殺しました。兄貴は私に東に行けと言っておきながら、自分は西に行ってしまいました」
 金載圭はここでも自身の行為を主張し、最終陳述の記録は保管して子孫に伝えるように頼んでいる。
 金恒圭は別れの歌を歌った。日本の浪花節だった。金載圭は、腹の底から湧き上がるように「うん!」と応えた。

 金載圭と金英煕の間には息子がいなかったため、恒圭の息子ミンスを金載圭の子として入籍させることにした。ミンスは茣蓙に座り、金載圭に対してクンジョルを行なった。金載圭はミンスを抱きしめて、しばらく涙を流した。

従容として死に就く

 金載圭は夕方以降、出された食事に手をつけなかった。その晩は一睡もせず、母親が桃の種で作ってくれた数珠玉をいじり続けてやり過ごしていた。翌朝は冷水摩擦をして身を整えた。

処刑場に向かう金載圭

 1980年5月24日、金載圭の身柄は京畿道にある南漢山城の刑務所からソウル市西大門区ソデムングにあるソウル拘置所に移送された。
 金載圭は両脇を兵士に抱えられて、取り乱すこともなく刑場まで歩いた。

 金載圭は人定質問を受けた。彼は手錠を掛けられた手で数珠を握りしめていた。僧侶の執礼を拒否し、首を振って、その場での遺言も遺さなかった。遺言は前日のうちに、家族に対して済ませていたからだ。

 金載圭は目隠しをされ、手首・足首を縄で縛られた。頭巾を被せられて、首に縄が掛けられた。
 白いカーテンが敷かれ、跪いた姿勢で床板が開くと、金載圭の体は落下して宙づりになった。20分余りが経過して、地下室に移動した医務官が彼の心臓が停止していることを確認した。落下の衝撃にも関わらず、数珠は固く手に握られたままだった。

【閲覧注意】金載圭の絞首刑執行画像

 夫の刑執行を知らされていなかった金英煕は、その日の朝も面会のために南漢山城の刑務所に向かっていた。
 
 当時、母・權有今は、蚕室チャムシルにある三女キム・ジョンスク12金載圭から見ると三番目の妹に当たるの自宅にいた。息子の死を知った權有今は娘に言った。
「お兄ちゃんは逝ってしまったんだね。泣くんじゃないよ。孝行息子は不忠者なんかじゃないのだから」

 一方、弟の金恒圭は、前日のうちに兄の刑執行を知らされていた。死刑執行後、金恒圭を始めとする親族たちはすぐに呼び出され、国軍統合病院に到着した軍の救急車内で金載圭の遺体を確認した。
 首に縄で絞められた赤黒い痕が残っていたものの、それを除けば穏やかに眠っているような姿だった。

墓碑のない埋葬

 三日葬は執り行えず、26日には、金載圭の亡骸を納めた棺は軍による厳重な警備を受けながら軍統合病院を出発した。

 金載圭の遺言は果たされなかった。
 同日処刑された部下たちは別々の地に埋葬された。
 大統領弑害犯である金載圭の墓碑を建てることは当然許されるはずもなかった。彼の棺は京畿道広州クァンジュ132001年に広州市に昇格にある南漢山城公園墓地内にひっそりと埋葬された。
 そこは、葬儀の前日に金恒圭が般若心経を唱えながら探し当てた場所だった。一本のケヤキがまるで招き入れるように枝を揺らしていたのだという。

 金載圭が最終陳述で予言したとおり、全羅南道光州チョルラナムドクァンジュで激しい民主化運動が起こった。しかし、全斗煥が確たる実権を握ったことで、この民衆蜂起は軍によって鎮圧され、多くの犠牲者を出した。金載圭が切望した民主化は、10.26事件によっては実現せず、再び「新軍部」と呼ばれる軍事政権時代に突入した。

 韓国で民主化宣言がなされたのは、それから七年後の1987年であるが、皮肉にもそれを実現させたのは、野党人士たちではなく、12.12粛軍クーデターを起こして金載圭の希望を打ち砕いたハナ会の一人・盧泰愚ノテウだった。

参考文献