朴正煕大統領暗殺事件は、1979年10月26日に韓国ソウル市内にある中央情報部(KCIA)施設内での晩餐中に、朴正煕大統領と車智澈青瓦臺警護室長が金載圭韓国中央情報部長によって射殺され、警護室職員らが中央情報部員らに銃撃されて死傷した事件である。
韓国では「10.26事件(10·26사건)1韓国では10.26ではなく、10·26とナカグロで表記する」「10.26事態(10·26사태)」「朴正煕大統領弑害事件(박정희대통령시해사건)」「朴正煕大統領被撃事件(박정희대통령피격사건)」「宮井洞事件(궁정동사건)」などと呼ばれている。
この事件はのちに12.12粛軍クーデター(12·12 군사 반란)へ繋がり、全斗煥が実権を握る契機となる。
事件現場
日時:1979年10月26日 19時41分頃
場所:大韓民国ソウル特別市鍾路区宮井洞中央情報部安家2安全家屋の略。中央情報部の私設。ナ棟3ハングルのカナダラマ式で2号棟やB棟に相当する。日本のアイウエオやイロハニホヘトに当たる表記。
十長生4日・水・松・鶴・亀・鹿・不老草に、山・雲・月・石・竹のうち、いずれか三つを加えた十の不老長生の象徴物。中国の神仙思想を元に、朝鮮独自に編成されたもの。が描かれた屏風があり、手前に朴正煕が座っていた座椅子が見える。向かって右側奥には血痕が付着した座布団がある。手前右下には、車智澈が金載圭から銃撃された時に盾として使った棚が倒れている。
酒席参加者
朴正煕:大統領
金桂元:青瓦臺秘書室長
金載圭:中央情報部長
車智澈:青瓦臺警護室長
沈守峰:歌手
申才順:女子大生
事件の経緯
1979年10月26日、朴正煕は農村を視察し、忠清南道唐津郡5現在の唐津市にある挿橋川の防波堤竣工式に出席した。これが大統領最後の公務となった。
その日の晩、ソウル市鍾路区宮井洞にある中央情報部の安家と呼ばれる私設内で、”大行事”が行なわれることになった。”大行事”とは大統領・秘書室長・中央情報部長・警護室長・酌婦2名の計6名で行なわれる晩餐を指す隠語である6それに対して”小行事”もあり、こちらは大統領と酌婦2名で行なわれる。
酒席では、沈守峰がギターを演奏しながら『그 때 그 사람(その時、その人)』を歌うなどして和やかな雰囲気であったが、政治の話題になると途端に緊張が走った。朴正煕大統領は、野党・新民党工作の失敗や、釜馬事態への対応について金載圭中央情報部長を叱責した。これに車智澈警護室長も加勢した。
金載圭は、事前に招待していた鄭昇和陸軍参謀総長に挨拶に行くなど、たびたび中座していた。この時、金載圭は部下の朴善浩と朴興柱に大統領暗殺計画を打ち明け、従うように命じた。
歌手・沈守峰のギターの伴奏で申才順が歌っている最中、金載圭が突然、隣りに座っていた金桂元秘書室長に「閣下にきちんとお仕えしてください」と声を掛けると、車智澈に向かって「この虫けら野郎!7金載圭がこの時に発した台詞については、証言が錯綜している。」と叫び、ズボンのポケットに隠し持っていたワルサーPPKを発射し、すぐさま朴正煕にも向けて発射した。一発目は車智澈の腕に被弾し、二発目は朴正煕の胸部に被弾した。しかし銃が故障したため、金載圭は部屋を退出し、部下の朴善浩の銃を借りて部屋に戻ると、出入口付近で鉢合わせた車智澈に向けて発射し、部屋の奥に入って朴正煕の頭部に向けて発射した。
金桂元・沈守峰・申才順は無事だった。
部屋の外では、朴善浩が警護室職員の鄭仁炯と安載松を銃撃して殺害。朴興柱ほか中央情報部員が厨房で待機していた警護室職員を銃撃した。
この事件では、朴正煕含め計6名が死亡した。
金載圭は鄭昇和らと共に陸軍本部に向かった。国務総理の崔圭夏らが大統領”有故8「事故に遭った」「有事」のような意味”の報せを受けて緊急に集まった。金桂元が大統領暗殺犯は金載圭であることを打ち明けたため、27日未明に金載圭は陸軍保安司令部によって逮捕された。
事件に関わった主な人々
被害者
朴正煕:大統領。晩餐中に金載圭から銃撃され、胸部と頭部に被弾し、死亡。
車智澈:警護室長。晩餐中に金載圭から銃撃され、手首と胸部に被弾し、死亡。
鄭仁炯:警護処長。待機中に朴善浩から銃撃され、首に被弾して死亡。
安載松:警護副処長。待機中に朴善浩から銃撃され、左肩の被弾が肺と心臓に達して死亡。
金容太:大統領専用車運転士。厨房で朴興柱と柳成玉に銃撃され、腰と背中に被弾して死亡。
金鏞燮:警護員。厨房で朴興柱と柳成玉に銃撃され、胸部や腹部など5発被弾して死亡。
朴相範:警護室随行係長。厨房で朴興柱と柳成玉に銃撃され、腰から被弾し重傷。
李正五:宮井洞安家料理人。厨房で朴興柱と柳成玉に銃撃され、脇腹に被弾し重傷。
金勇南:情報部運転士。厨房で朴興柱と柳成玉に銃撃され、肩に被弾し重傷。
主犯
金載圭:中央情報部長。朴正煕と車智澈を殺害した内乱目的殺人罪で絞首刑。
共犯容疑で逮捕された主な人々
朴善浩:中央情報部儀典課長。鄭仁炯と安載松を殺害した内乱目的殺人罪で絞首刑。
朴興柱:陸軍大領。中央情報部長随行秘書。金鏞燮と金容太を殺害した内乱目的殺人罪および、朴相範と李正五と金勇南に対する殺人未遂罪で、現役軍人のため銃殺刑。
李基柱:宮井洞安家警備課長。朴興柱や柳成玉と同罪で絞首刑。
柳成玉:宮井洞安家運転士。朴興柱や李基柱と同罪で絞首刑。
金泰元:宮井洞安家警備員。確認射殺を行ない、生存の可能性がある者を絶命させた内乱目的殺人罪で絞首刑。
劉錫述:宮井洞安家ナ棟正門警備員。銃器を安家の庭に埋めた証拠隠滅罪で懲役3年。
徐永俊:宮井洞安家警備員。病院の医師や職員を脅迫した罪で懲役3年。
金桂元:大統領府秘書室長。大統領との晩餐に参席。事件目撃者。共謀容疑で逮捕・懲役刑。
鄭昇和:陸軍参謀総長。金載圭に安家に招かれていたため、共謀容疑で逮捕。
事件に巻き込まれた主な人々
沈守峰:歌手。晩餐に酌婦として招かれていた。事件目撃者。
申才順:女子大生。漢陽大学演劇科3年。晩餐に酌婦として招かれていた。事件目撃者。
金正燮:中央情報部第2次長補。鄭昇和を接待。金載圭を逮捕するため、陸軍保安司令部に協力。
事件の捜査を担当
全斗煥:陸軍保安司令官。合同捜査本部長として10.26事件の捜査を担当。12.12粛軍クーデターを起こして鄭昇和を逮捕し、実権を握る。
合捜部の発表と軍事法廷での判決
合同捜査本部は取り調べの結果、金載圭が事件を起こした動機は「車智澈警護室長の越権行為に対する不満」「大統領からの叱責、中央情報部長更迭への惧れ」であると発表した。
対して、金載圭と弁護士は「民主主義回復のための革命」であると主張した。
陸軍本部戒厳高等軍法会議の法廷で、金載圭・朴善浩・朴興柱・李基柱・柳成玉・金泰元に対し、内乱目的殺人罪で死刑判決が下った。
朴興柱のみ現役軍人だったため、一審で結審し、1980年3月6日に銃殺刑に処された。
金載圭・朴善浩・李基柱・柳成玉・金泰元5名は1980年5月24日に絞首刑に処された。
共謀罪で逮捕された金桂元は無期懲役の判決を受けたが、1982年に刑執行停止となり、釈放。88年には特赦となり、復権した。
鄭昇和は暴動幇助未遂罪で懲役刑を受けたが、1980年に刑執行猶予となり、81年に特赦、88年に復職した。
当時、合同捜査本部捜査局長として事件を担当した白東林は、のちに「10.26は単純殺人事件である」と明言した。
金載圭に引き金を引かせた七つの要因
事件発生には、金載圭が激昂しやすい性格だったことや持病が思わしくなかったこと、車智澈警護室長との権力闘争で劣勢であったこと、朴政権を取り巻く内外の政情不安などの複数の要因があったと言われている。
金載圭本人は民主主義回復が目的であると主張している。元々彼は維新体制に否定的な姿勢を見せており、反体制人士を援助していたこともあったという。
以下、金載圭に引き金を引かせた要因ではないかと言われる事項。
一.金載圭の自尊心と正義感――民主化への熱望
”野獣の心で維新の心臓を撃った”金載圭。彼は朴大統領暗殺の動機について、「民主主義回復のため」と主張した。元々、維新9朴正煕大統領の権力を高めるために布かれた維新憲法。維新体制後の朴正煕政権を韓国では「第4共和国」と呼ぶ。独裁体制に否定的だった彼は、一部の反体制人士たちと交流したり、支援するなどしていたという。
二.車智澈警護室長の傲慢不遜と越権行為
傲慢不遜な性格で周囲から悪評だった車智澈警護室長は、10.26事件が起きると真っ先に犯人ではないかと疑われた人物だった。金載圭は、地位も年齢も下の車智澈からたびたび妨害を受けていた。自尊心の強い金載圭が度重なる車智澈の越権行為に耐えられる筈がなかった。
三.野党・新民党工作の失敗と釜馬事態の発生
朴正煕政権に反旗を翻す野党強硬派の金泳三が新民党総裁に選出される。金泳三をめぐって、朴政権でも新民党でも内部分裂が起こっていた。金泳三が除名処分を受け、釜山と馬山では反体制運動が噴き上がる。金載圭は現地・釜山を視察し、「民衆蜂起」と見ていた。
四.韓米関係の悪化
10.26事件を語る時に付き物の「米国背後説」。朴政権の人権弾圧を問題視する米国は何度も駐韓米軍撤収をチラつかせた。朴正煕はそれに対応するため、自主国防――武器と核兵器開発を目指す。金載圭はたびたび駐韓米国大使や米CIAソウル局長と密談を繰り返していた。
五.朴槿恵と亡国の師・崔太敏
大統領令嬢・朴槿恵がカルト宗教家の崔太敏と深く関わっていた。崔太敏の不正を調査した金載圭は朴槿恵から逆恨みを受ける。その上、朴大統領までもが崔太敏の肩を持ち、金載圭は失望することになる。朴槿恵大統領を弾劾罷免に導いた崔順実ゲートは、既にこの時から始まっていた。
六.金炯旭回顧録と失踪事件
米国に亡命していた元中央情報部長の金炯旭がコリアゲート事件を証言。韓国の要人たちが次々と帰国への説得を試みるが玉砕。そして遂に朴政権の暗部を暴露する回顧録が執筆された。朴大統領暗殺からわずか十九日前、金炯旭はパリで忽然と姿を消した。その失踪事件は、金載圭の指示があったと言われている。
七.金載圭の病と弟への警告親書
金載圭は肝硬変を患っていた。その病はかなり進行していたという。
その他にも金載圭は、弟・金恒圭の振る舞いについて、朴正煕大統領から注意を促す親書を受け取っていた。
影響
10.26事件は、1979年12月12日に起きた”12.12”こと粛軍クーデターの要因となった。
金載圭から事件現場の宮井洞安家に招待されていたために鄭昇和陸軍参謀総長が共謀容疑を掛けられ、事件の合同捜査本部を指揮した全斗煥少将率いる陸軍保安司令部によって逮捕連行された。鄭柄宙特戦団司令官が銃撃され、張泰玩首都警備司令官が逮捕拘束された。
”上命下服”の軍内で下剋上が起こったのは、軍内に「ハナ会10「一つの会」という意味」という陸軍士官学校11期生を中心とした私組織があったためだ。
クーデターを起こしたのは、このハナフェのメンバーだった。全斗煥はハナフェのリーダー格であり、盧泰愚もその中心メンバーだった。彼らが実権を握ったことによって、新軍部体制が生まれ、多大な犠牲者を出した5.18光州事件(5·18 광주 민주화 운동)へと繋がった。結局、この運動は軍に鎮圧され、民主主義回復は実現しなかった。
全斗煥と盧泰愚――二人の元大統領は粛軍クーデターと光州事件の首謀者として、のちに法の裁きを受けることになる。
事件に対する評価
金載圭は裁判の過程で、大統領を殺したのは民主主義回復のためであり、10.26は国民によって審判が下されるべきだと語っている。
しかし、10.26事件直後に12.12粛軍クーデターが起き、新軍部体制が発足したことで民主主義は実現しなかった。その影響もあって、10.26は国家元首暗殺という国の行く末を転換させた事件の割りには大きな議論の対象とはならなかった。
10.26事件すなわち金載圭の殺害行為については、韓国内で評価が分かれている11暗殺は本来テロリズムであるが、韓国は元々、伊藤博文を暗殺した安重根が抗日の英雄として扱われ、記念館が建つような風土なので、そこは議論の対象としてあまり重要視されていない。。
自身を引き立ててくれた恩人である朴大統領を殺害するという「大逆」「不忠」への批判。民主化のために維新独裁を倒そうとした「義士」であるという称賛。
金載圭と車智澈の権力闘争が主だった原因と見られていたが、金載圭を直接知る人間からは彼が礼儀正しい好人物という印象を持たれていたことが評価を複雑にした。
民主化運動を行なった人士たちの間でも評価は二分されている。金載圭が強硬策を提言していた一方で、民主化人士を支援していたという二律背反的な行動を取っていたからだ。
90年代後半になると、IMF経済危機の影響もあって、韓国を経済成長させた朴正煕への再評価が高まった12通称「朴正煕シンドローム(박정희 신드롬)」。
10.26事件と金載圭は、2016年の崔順実ゲートで再び脚光を浴びた。
それまでも朴槿恵政権になってからは失政に対するブラックユーモアとして、金載圭を義士として祀り上げたネタがインターネット上に上げられていたが、金載圭がかつて崔順実の父親である崔太敏の不正を捜査していた事実が取り上げられると、金載圭の再評価ムードは一気に高まり、これまで取り上げられることがなかった金載圭の善行的な言動が発掘された。
金載圭の墓地は朴正煕支持者によって破壊されたこともあったが、崔順実ゲートが発覚した後は追悼のために訪れる人が増えたという。墓地には、朴槿恵大統領弾劾訴追を報じる新聞記事や、事件当時に酌み交わされたシーバス・リーガルも供えられていた。
かたや朴正煕も、墓所や胸像を汚損されるなどの被害を受ける一方で、出身地の亀尾に銅像と記念館が建てられるなどし、賛否は分かれたままである。
朴正煕は保守層や高齢者の間で支持されており、特に彼の出身地である亀尾市とその周辺地域である大邱・慶尚北道では”半神半人”と崇められている。
朴正煕政権時代に野党政治家であり、朴正煕にとってはいわゆる”政敵”であった二人の大統領は対照的な評価を述べた。
金泳三は、朴正煕の不正腐敗を痛烈に批判した。対して、朴政権時代に長期間軟禁状態に置かれたり、拉致された上に生命も脅かされた金大中は、以下のように評した。
――支持するか否かはさておき、6.2513朝鮮戦争後に廃墟と化した韓国で「我々も為せば成る」という自信を国民に呼び起こした。近代化を成し遂げたのは、誰が何と言おうとも偉大な業績であることは認めねばならない。
参考資料
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【】
- 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【】
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 趙甲濟 著・黄民基 訳『別冊宝島89 軍部!』JICC出版局 1989年
- 나무위키 namu.wiki/10.26 사건
- 나무위키 namu.wiki/박정희
- 나무위키 namu.wiki/김재규
- 『 [랭킹쇼] 박정희 100주년, 전직 대통령들의 평가…극찬부터 혹평까지』레이더P 2017年11月14日