将軍たちの闘い
陸軍保安司令部西氷庫分室に連行された陸軍本部の将軍たちは、クーデター側を鎮圧しようとした行為や、金載圭との関係について取り調べを受けた。
李建榮は金載圭が陸軍大学副総長だったころに教官を務めており、鄭柄宙にとって金載圭は安東農林学校の先輩に当たる。文洪球は金載圭が保安司令官時代に参謀長を務めていた。
李建榮は93年に新軍部を告訴した一人だったが、彼は「12.12反乱を防げず、国民に対して申し訳ない」という謝罪を表明したのみで、報道各社への取材には応じず、沈黙を守った。
2023年3月11日に老衰で死去し、国立ソウル顕忠院に埋葬された。
12.12粛軍クーデター時、左肺に貫通傷を負った河小坤は病院に運ばれ、手術で一命を取り留めたが後遺症に苦しみ、釜山で療養生活を送った。
2013年に死去し、国立大田顕忠院に埋葬された。
鄭昇和、拷問を受ける
西氷庫分室に連行された鄭昇和は、作業着に着替えさせられ、白いゴム靴を履かされると、金載圭との共謀について厳しく追及された。
否認すれば、鉄の椅子に縛り付けられ、棒で殴打され、顔に布を被せられて水責めを受けた。彼の主張は全く通らず、書かれた調書に従うよりほかなかった。
鄭昇和は、連行された翌13日に解職され、予備役に編入された。
1980年3月13日、鄭昇和は内乱幇助罪で懲役10年の刑を宣告された上に1のち、7年に減刑される。、二等兵にまで降格された。権力が全斗煥に握られている以上は法に頼ることはできないと悟っていた鄭昇和は控訴を放棄した。収監中にジョン・ウィッカム将軍から誕生祝いを贈られたことが、心の支えになっていたという。
1980年6月に刑執行停止となり釈放され、翌81年には赦免・復権となった。
1987年に『12.12사건 정승화는 말한다(12.12事件 鄭昇和は語る)』を出版した。
1988年に盧泰愚が大統領に当選すると、鄭昇和は、予備役陸軍大将の階級や、没収されていた給与や年金受給権を取り戻した。
糖尿病ほか、晩年はパーキンソン病も患っていた鄭昇和は、2002年6月12日にソウル市内で死去し、国立大田顕忠院の将軍1墓地に埋葬された。
金晋基の良心と矜持
金晋基は金載圭を逮捕した軍人だった。
西氷庫分室に連行はされたものの、罪に問われることはなかった。しかし「良心が許さない」として、彼は軍を去った。
その後、金晋基は招待を受けて日本に滞在し、帰国後は巨文島に渡ってブリの養殖場を経営したが、事業に失敗し、ソウルに戻った。
1987年には鄭柄宙と共に記者会見を行ない、新軍部の罪を告発した。
盧泰愚政権時には様々な職を提案されたが、断固として応じなかった。その後は英国の戦略問題研究所や日本の平和問題研究所で、国際問題や地政学の研究に努めた。
2006年に死去し、国立大田顕忠院に埋葬された。
日和見主義者・尹誠敏
尹誠敏は、西氷庫分室に連行されるも、すぐさま解放され、第1軍司令官に転任となって、大将に進級した。
彼は合同参謀議長兼対間諜対策本部長に栄転した。さらに、全斗煥政権下で最も長く国防部長官を務めた。
そのような厚遇を受けながらも、1996年の12.12裁判では証人として出廷し、反乱行為だと新軍部側を否定したため、日和見主義者だという批判を受けた。
尹誠敏は2017年11月6日にソウルで死去し、国立ソウル顕忠院の将軍2墓地に埋葬された。
張泰玩一家の悲劇
張泰玩は、西氷庫分室で拘束されている間に体重が58kgまで落ちた。彼は「全ては終わった。敗軍の将が生かされたまま家には帰れない」と言って軍人生活に終止符を打ち、予備役に編入された。
張泰玩の父親は、12.12によるショックで食を断ってマッコリだけ呑む生活を送り、翌年4月に亡くなった。
1982年1月には、ソウル大学に入学した張泰玩の息子ソンホが行方不明となり、2月に、祖父の墓地付近の洛東江沿いの山の麓で遺体となって発見された。
張泰玩は、1987年には心筋梗塞、2008年には肺癌の手術を受けながらも鍛錬を怠らず、12.12に対する怒りの告発を続けた。
2010年7月26日、張泰玩は持病により死去し、国立大田顕忠院に埋葬された。
張泰玩の妻・李氏は、夫の死後は家政婦と二人で暮らし、娘とも行き来があったが、2012年1月17日に遺書を残して、ソウル江南区大峙洞にある自宅マンションの10階から飛び降りて自殺した。
鄭柄宙と金五郎夫人の変死
左腕に銃撃を受けた鄭柄宙は手術を受けていた。彼の容疑は「金載圭の高校時代の後輩として追従し、鄭参謀総長救出を目的として兵力を動員した」とされたが、金載圭や鄭昇和と連座させられることはなかった。
鄭柄宙は1980年1月20日に予備役に編入された。
鄭柄宙の後任の特戦団司令官には、全斗煥や盧泰愚らと陸軍士官学校同期の鄭鎬溶が任命された。鄭鎬溶は後方の50師団長だったため、クーデターには参加してなかったが、ハナ会メンバーの一人である。
しかし鄭鎬溶は、殉職した金五郎に対しても、家族葬にしろという保安司令部の指示を無視して部隊葬として取り行なうほど義理堅い人物だったので、新軍部側にあって、鄭柄宙が唯一評価した人物でもあった。
鄭柄宙特戦団司令官を護衛するために最後まで残り、命を落とした金五郎少領は国立墓地に埋葬された。
金五郎の妻・白英玉は、命令に従ったまでだと主張した朴琮圭に「司令官を撃つことが正しい命令ですか!」と強く抗議した。
彼女はその後、視力を失いながらも、寺を開院して奉仕活動を行なっていたが、1991年6月28日に施設内で墜落死体となって発見された。
鄭柄宙は、自身の先輩である金載圭が大統領を弑したこと、麾下の旅団長たちがクーデター側に従ったこと、金五郎が命を落としたことなどに心を痛めていた。
彼は妻に連れられて寺に通っていたが、カトリック信徒の長男夫妻による影響で明洞聖堂に通うようになり、洗礼を受けた。
鄭柄宙は、その後も張泰玩や金晋基らと交流を続け、12.12軍事反乱と新軍部政権に対する不当性を訴えていた。
しかし彼は、1988年10月16日、妹の自宅を訪問した後に忽然と姿を消してしまった。それから翌年の3月4日に、野山で首を吊った遺体となって発見された。自殺と結論づけられたが、鄭柄宙が敬虔なカトリック信徒であり、また日頃の様子からも自殺する様子はなかったことから、他殺説が根強く残っている。
鄭柄宙は、国立ソウル顕忠院に埋葬された。
5.18光州事件
1980年4月14日、全斗煥は中央情報部長を代行した。
同年5月17日、全斗煥は非常戒厳令を全国に宣布し、有力な政治家26名を逮捕・連行した。また、金泳三も自宅軟禁下に置かれた。
全羅南道の道庁があった光州市2現在は、広域市として全羅南道から分割されている。では、金大中への逮捕に抗議した学生や市民が民主化運動を起こした。全羅南道は金大中の出身地域であり3全羅南道荷衣島出身、地盤だった。
特戦団司令部空輸旅団がデモ鎮圧に投入された。デモ参加者が増え、軍や機動隊による鎮圧は過激化し、市民を射殺するに至った。
いわゆる「光州事件」である。
この事件で、一般市民166名が命を落とし、多数が行方不明となった。また兵士23名と警察官4名も亡くなっている。
金大中は暴動を扇動した首謀者とされ死刑判決を受けたが、国際的な批判を受けて、死刑を免れている。
新軍部
第5共和国
1980年8月に崔圭夏が大統領を辞職すると、全斗煥は統一主体国民会議を開いて第11代大統領に就任した。全斗煥は一人が7年1期の大統領制を骨子とした新しい憲法を制定して、民主正義党4全斗煥政権から盧泰愚政権にかけての政権与党。「民正党」という略称で表記されることが多い。から出馬して当選。第12代大統領に就任した。「第5共和国」の誕生である。朴正煕軍事政権に対して、通称「新軍部」とも呼ばれている。
国民が待ち望んだ民主化はなされなかった。全斗煥政権時代も言論は統制され、中央情報部は国家安全企画部に変わり、引き続き国民を監視した。
1983年11月にロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan)米大統領が韓国を訪問した。全斗煥大統領は自国の核開発を始めとする自主国防計画を中止し、米国から兵器を輸入することで、悪化していた韓米関係を修復した。
また、1984年9月には、全斗煥は韓国の大統領として初めて日本を訪問している。
スポーツ振興を進めていた全斗煥は1988年のソウル五輪を招致した。また3S(Sports・Sex・Screen)政策により、映画産業の振興や、検閲を緩和させた。
一方、国民の間では、長時間労働や、学生に対する弾圧に対して不満が増していた。1987年に起きた朴鍾哲拷問致死事件5ソウル大学言語学科に在籍していた学生運動家・朴鍾哲が治安本部によって連行され、取り調べで拷問を受けて死亡した事件。が契機となって改憲論が湧き起こると、全斗煥大統領は護憲措置を発表するが、かえって国民の反発を招き、6月抗争という民主化運動に発展した。
延世大学の学生だった李韓烈が、警察の催涙弾に当たって死亡する事件が起きた。翌日にはデモは本格化し、会社員や高校生までもが加わった。
民主正義党代表委員だった盧泰愚が6.29民主化宣言を発表したことで、全斗煥は護憲措置を撤回した。
金泳三と金大中が分裂して統一候補が立てられない中、金鍾泌も大統領選挙に立候補したが、結局、直接選挙によって当選したのは、全斗煥の盟友・盧泰愚だった。
五共非理
1988年、韓国でソウル五輪が開催されたが、招致の功労者だった全斗煥は開会式に招かれなかった。盧泰愚大統領は、かつての盟友の不正を断罪しなければならない立場にあった。
全斗煥は、親しみやすい性格で人脈を形成したが、一方で常に黒い金脈もつきまとっていた。親族の利権介入や、自らの収賄・不正蓄財に批判が集まり、1988年11月には、全斗煥は妻・李順子と共に江原道にある百潭寺で隠遁生活を送ることとなった。
盧泰愚大統領は「五共非理6第五共和国の不正という意味。」に対する特別捜査を行ない、その過程では全斗煥の懐刀だった張世東や李鶴捧らも拘束された。
全斗煥への断罪は国民の声であり、盧泰愚大統領が抗えるものではなかった。1989年大晦日に聴聞会に出席した全斗煥は、光州事件を追及する野党議員たちから「人殺し!」と面罵された。
裁かれる大統領閣下
1993年に金泳三が大統領に就任し、張勉国務総理・尹潽善大統領7議員内閣制で、首班は国務総理の張勉。1961年5月16日の朴正煕少将を中心とした軍事クーデターによって、わずか一年で終焉した。以来の文民政権が誕生した。
同年、鄭昇和・李建榮・文洪球・河小坤・張泰玩・金晋基ら22名が、全斗煥ら34名を内乱の罪で告発したが、成功したクーデターは裁けないという理由により、被告は起訴猶予処分となった。
全斗煥らは、逆に鄭昇和らを誣告罪で告訴したが、棄却された。
全斗煥、死刑判決を受ける
1995年、歴史の立て直しという名目で国会で特別法が制定され、全斗煥は逮捕拘束された。また、盧泰愚も、それに先立って裏金事件で拘束されていた。
全斗煥や盧泰愚のほか、鄭鎬溶・黄永時・兪學聖・車圭憲・許和平・許三守・李鶴捧・李熺性・周永福8盧載鉉の後任の国防長官。国務会議で戒厳令の拡大を主張し、戒厳軍の自衛権発動を決定して光州事件の虐殺を招いたとして、懲役7年の有罪判決を受けた。・崔世昌・張世東・朴俊炳・申允煕・朴琮圭らが、12.12軍事反乱および5.18民主化運動を起こした罪で拘束・起訴された。
1審では全斗煥に死刑判決が下された。元大統領に死刑判決が下るという衝撃的なニュースが内外に轟いた。全斗煥は2審では無期懲役に減刑されたが、彼らはそれぞれに有罪判決を受けた。
皮肉にも光州事件で内乱を企てたとして死刑判決に追い込んだ金大中が大統領に就任すると、全斗煥・盧泰愚らは恩赦となって釈放された。
しかし、その後も全斗煥は、「全斗煥追徴法」によって一族の不正まで徹底追及を受けた。
盧泰愚の死去
流動的でつかみどころがなかったため、盧泰愚は大統領在任中に”水”というニックネームを付けられていた9盧泰愚自身はこのニックネームを肯定的に捉えていた。。
盧泰愚は法廷で「わかりません」「記憶にありません」という答弁を繰り返した。それが大統領を務めた人間として心もとなく、無責任な姿に見せていた。
しかし、彼の家族は、盧泰愚は全斗煥が側近たちと相談しながら決定したことを後から聞かされた顧問のような立ち位置であったため、本当に何も知らなかったのだと話す。
盧泰愚は前立腺癌や小脳萎縮症などを患い、長いこと闘病生活を送っていたが、2021年、朴正煕が暗殺された日でもある10月26日にソウル市内の病院で死去した。88歳だった。
盧泰愚に対しては国葬が行なわれたが、国民の反発は大きかった。本人と遺族の希望により、国立墓地ではなく、京畿道坡州にある統一東山内の同和敬慕公園に埋葬された。ここは、北朝鮮移民たちが埋葬される墓地でもあった。
全斗煥の死去
盧泰愚が亡くなる直前の10月21日には、全斗煥の弟・全敬煥が79歳で亡くなっている。
全敬煥と盧泰愚の死去から、わずかひと月後の2021年11月23日、全斗煥が延禧洞の自宅で死去した。90歳だった。晩年は多発性骨髄腫を患っていた。
大統領退任後は数々の不正が明らかになり、最後まで追及と断罪がやむことはなかった。
12.12軍事反乱と光州事件の主犯格だった全斗煥には、国立墓地への埋葬はおろか、国葬で送ることも認められなかった。全斗煥の亡骸はソウル追慕公園で火葬されたが、埋葬を希望する土地での反発が強く、遺骨は延禧洞の自宅に安置されたままとなっている。
ドラマや映画となった12.12
民主化以後、新聞各社では軍事政権の内幕を暴くルポルタージュが掲載され、10.26朴正煕大統領暗殺事件や12.12粛軍クーデターはドラマや映画の題材となった。
12.12は、1995年にMBCで『제4공화국(第4共和国)』が、SBSで『코리아게이트(コリアゲート)』が、2005年にはMBCで『제5공화국(第5共和国)』がそれぞれドラマ化されるが、そのたびに放送局や制作者側は、許和平や李鶴捧ら関係者から猛抗議を受けている。
12.12の中心人物であり、元大統領の二人――全斗煥と盧泰愚が死去してから間もない2023年に、映画『서울의 봄(ソウルの春)』が公開された。12.12が主題として映画化されたのは初めてのことだった。
韓国人は、12.12で敗者となった鄭昇和や張泰玩ら陸軍本部側を「我々」として見ている。『ソウルの春』も、全斗煥をモデルとしたチョン・ドゥグァンを悪として描き、それに対抗するイ・テシンを高潔な軍人として描いているようだ。
イ・テシンのモデルとなった張泰玩は、ドラマ『第5共和国』でも、いささかコミカルではあったが、強烈なキャラクターで人気を博し、「장포스(張フォース)」という言葉も生み出した10張泰玩が電話で激昂する場面がインターネットミーム化し、韓国内で爆発的人気を呼んだ。張泰玩役のキム・ギヒョンは「張フォース」と呼ばれ、この言葉は流行語として記録されている。「フォース」の元ネタは映画『スター・ウォーズ』から。。
一方で、比較的事実を忠実に再現していると言われるMBCドラマ『第5共和国』であったが、当の張泰玩は「全斗煥を劉備や関羽のように英雄視している」「保安司令官に権力が一極集中してしまった過程や問題点を描かなかった」と一刀両断している。
張泰玩が存命であれば、自身を主人公の一人として描いた映画『ソウルの春』に、どのような評価を下していただろうか。
参考文献
- 金在洪 著・金淳鎬 訳『極秘 韓国軍 知られざる真実―軍事政権の内幕(上)』光人社 1995年 【】
- 趙甲濟 著・黄民基 訳『別冊宝島89 軍部!』JICC出版局 1989年【】
- 嚴相益 著・金重明 訳『被告人閣下―全斗煥・盧泰愚裁判傍聴記』文藝春秋 1997年【】
- 李啓聖『實録青瓦臺 지는 별 뜨는 별』한국일보 1993年
- 나무위키 namu.wiki/12.12 군사반란
- 나무위키 namu.wiki/하나회
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- 『노태우의 묘를 국가가 관리… 씁쓸합니다』오마이뉴스 2024年2月1日
- “12·12 쿠데타로 강제 예편당한 군인들 명예회복을!” 월간조선 2010年1月号
- 장태완 前수경사령관 부인 투신자살(종합) 연합뉴스 2012年1月17日
- “오직 진상 밝히려 살아왔다” 시사저널 2006年5月16日
- 장태완 “‘제5공화국’서는 전두환이 유비·관우?” 조선일보 2005年5月6日