上命下服と瓦全玉砕――金載圭の部下たち

現場検証時の金載圭(左)と朴興柱

 朴正煕パクチョンヒ大統領暗殺事件の主犯・金載圭キムジェギュとともに、彼の五人の部下たちが刑場の露と消えた。部下たちは誰一人として、金載圭から事前に計画を知らされていなかった。本人たちの意思とは無関係に、軍隊式の上命下服によって否応なく従っただけだった。金載圭は公判の最終陳述にて、部下たちを「羊」に喩えた。金載圭による助命嘆願は叶わず、彼らもまた犠牲となってしまった。

金載圭の腹心だった二人

 金載圭から直接命令を受けて現場の指揮を務めたのが、中央情報部儀典課長・朴善浩パクソノと、情報部長随行秘書官・朴興柱パクフンジュだった。二人はいずれも金載圭とは個人的にも近い縁で結ばれていたこともあり、最後まで金載圭に対して忠義の姿勢を崩さなかった。

金載圭の教え子・朴善浩

 金載圭の部下たちの中で、金載圭と個人的に最も深い繋がりを持っていたのが、10.26事件当時に中央情報部儀典課長を務めていた朴善浩だ。彼は高校生の時から、恩師だった金載圭とは個人的な誼があった。10.26事件成功の鍵は、現場を直接指揮した朴善浩が握っていたとされる。

朴善浩

 1934年生まれの朴善浩は、慶尚北道キョンサンブクト清道郡チョンドグンの出身。大邱テグにある大倫デリュン中学校・大倫高校に進学した。中学生の時に、体育教師として赴任してきた金載圭と出会った。卒業以降も同期生たちとともに、第3軍団長を務めていた金載圭に挨拶に訪れるなど交流を続けていた。

 1953年に海兵隊幹部候補生として任官し、派越1ベトナム派兵青龍部隊大隊長・海兵隊ソウル保安部隊長・海兵隊人事処長などを歴任。のちに海兵隊司令部が解体されると予備役に編入され、1974年当時に中央情報部次長だった金載圭の推薦で情報部の総務課長に任命された。1976年には情報部釜山プサン支部の情報課長となったが、同年、密輸事件を捜査していた検察捜査班を盗聴したことで免職された。一年ほど失業していたが、金載圭の計らいで現代ヒョンデ建設のサウジアラビア・ジュバイル港湾建設現場安全次長に就職した。しかし、軍人気質の朴善浩にとって民間企業は性に合わず、八ヶ月で退職した。帰国後は石油輸入関連会社を経営したものの、石油ショックの影響で状況は思わしくなかった。そんな最中に再び金載圭中央情報部長に呼び出され、情報部安家アンガ2秘密施設。「安全家屋」の略。の儀典課長のポストを与えられた。

 敬虔なクリスチャンだった朴善浩は、大統領に素人の女性を宛がって接待させる儀典課長の仕事に対して苦痛を感じており、両親からも咎められていた。しばしば金載圭に辞意を訴えていたが、聞き入れてもらえないまま10.26事件を迎えた。
 事件後、朴善浩は現場にいた二人の女性・沈守峰シムスボン申才順シンジェスンに、見たことを絶対に口外するなと言って、それぞれに20万ウォンずつを渡して帰宅させた。
 彼はその後、自宅と事件現場の宮井洞クンジョンドンを行ったり来たりしながら、方背洞パンベドンの義実家へ向かった。そして、義母・妻・義弟に告げた。
「俺は人を殺した。生きてはいられない。自決する」
 家族は驚いて号泣し、クリスチャンが自殺してはいけないと言い聞かせた。
 朴善浩は再び宮井洞の執務室に戻ると、そこで合同捜査本部の捜査官たちによって連行された。その後、主犯の金載圭らと同様に内乱罪および内乱目的殺人罪で起訴された。

 朴善浩は宮井洞安家の管理責任者として、大統領と女性にまつわる数々の機密を弁護士の姜信玉カンシンオクに打ち明けている。
 車智澈チャジチョル青瓦臺チョンワデ警護室長は「金載圭が閣下の御機嫌取りで映画女優だのタレントだのをしょっちゅう呼んで来る」と側近にボヤいていたようだが3「車智澈伝(上)私生児の劣等感と反骨心」参照、朴善浩によると、女性の3分の1は車智澈による指名だったということで、話は食い違う。朴善浩は、法廷でも大統領の女性問題を暴露しようとしたが、金載圭から「喋るな」と制止された。

 朴善浩は不本意な儀典課長職を務め、金載圭の命令に否が応でも従わざるを得ず、結果、同じ海兵隊出身の仲間である鄭仁炯チョンインヒョン安載松アンジェソンを手に掛けた。連行後は陸軍保安司令部西氷庫ソビンゴ分室で拷問を受けている。それにも関わらず、彼は金載圭への忠誠心を最後まで貫き通した。

 朴善浩は法廷で以下のように語った。

「金部長は本人の恩師であり、職も斡旋してくださり、本人を理解した上で大事にしてくださるので、いつも有難く思っていました。『三国志』『大望4山岡荘八・著『徳川家康』の日本語訳。1975年に韓国で出版されたが、当時は著作権法が整備されておらず、原作者に無断で翻訳されたもの。』のような本をたくさん読みなさい、質素な生活をしなさい、思い上がった行動を慎むように等、ためになるお言葉を頂けるので、普段から尊敬していました」

「私は情報部に勤務し、尊敬する金部長にお仕えすることを何よりの栄光と考えておりますので、いまだもって恨んだり悲観したりすることなどありません。これは私の率直な思いです。情報部に勤めながら、部長は国民のため、救国のために、随時青瓦臺に出入りしながらも、時折私には息が詰まるような切迫した状況を知らせてくださっていたのです。国の行く末を虫けら目線ではなく、鳥のように真っ直ぐな目線で見られるように私を育ててくださることを常日頃から光栄に思っていました。1審でも申し上げましたが、事件当時の状況は切迫しており、たとえどこの誰であろうと、100人中90人は必ず私と同じ行動を取るはずです。今また同じ状況に置かれたとしても、私はこの道を歩む以外ないと、はっきり申し上げます」

 1980年5月24日、朴善浩は、金載圭と同日のうちに西大門区ソデムングにあるソウル拘置所内で絞首刑に処された。執行前に彼は牧師の執礼を受け、礼拝を行ない、賛美歌を歌った。朴善浩は「家族に一所懸命教会に通うように伝えてください」と遺言した。46歳だった。

清廉な軍人・朴興柱

 10.26事件当時に中央情報部長随行秘書官を務めていた朴興柱は、金載圭の部下たちの中で最も知的レベルの高い人物だと言われている。

朴興柱 ©연합뉴스

 1939年生まれの朴興柱は北朝鮮の平安南道ピョンアンナムド平原郡ピョンウォングンの出身で、朝鮮戦争時、韓国に渡った。
 朴興柱は名門・ソウル高校を卒業するなど学業成績優秀であったが、家が貧しかったために陸軍士官学校に入学した。砲兵将校として任官するも、飛び級で戦砲隊長となった。優れたブリーフィング能力が6師団長を務めていた金載圭の目に留まり、6師団の専属副官となった。金載圭が第6管区司令官に昇進した後も、ともに異動して専属副官を務めた。ベトナム戦線で勤務し、帰国後は金載圭の下で陸軍保安司令部に勤務した。
 1978年、朴興柱は38歳の若さで大領5大佐に進級した。陸軍本部に勤務していたが、この時も金載圭に声を掛けられて、情報部長随行秘書官に抜擢されたのだ。

 朴興柱の私生活は極めて慎ましいものだった。軍事政権時代、軍人は裕福で安定した生活を送っていたが、不正蓄財など一切しなかった彼は、実家の事情もあって、ネズミが駆け回るようなあばら家に住んでいた。事件後、捜査官たちが朴興柱の自宅を訪れた時は、本当にそこが情報部長の秘書官を務める者の家なのかと驚くほどだった。

 朴興柱には二人の娘と、当時生まれたばかりの息子がいた。幼い姉妹は争って父親と組んでダンスをした。権力の中枢に出入りし、大統領とも顔を合わせ、職場では上流の経験をしながらも、朴興柱は妻に「愛する子供たちと君がいるから、自分の家が一番好きなんだ」と言うほど家族思いの男だった。

 朴興柱の長女・惠英ヘヨンは、友達がフルートを買ってもらっているのを見て、自分も欲しいと父親におねだりをした思い出を語る。
「パパは国を守る兵隊だからなぁ。兵隊さんはあまりお金がないんだよ。パパが軍隊を辞めて、王書房ワンソバン6歌手・金貞九の歌に出てくる架空の人物で、絹を売る商人。「王書房」とは中国人キャラクターのステレオタイプな名称で、「書房」とは「旦那」のような意味。みたいに絹商人でもしてお金を稼いだら買ってあげられるよ。そうしようか」
 しかし娘は首を振った。
「フルートはなくていいです。パパはそのまま兵隊さんでいてください」

 また、父娘はこのようにも会話した。
「パパは惠英がサッチャー女史7英国初の女性首相マーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)を指す。みたいになったらいいなと思うんだ」
「パパ、私はサッチャー女史みたいにはなりたくない。だって政治家は嫌いだもん」
「政治家になれということじゃなくてね。女性でも自分の仕事を持っていれば立派に生きられるんだよ。貧しさも問題にならないくらいにね」

 1979年10月26日の前日、朴興柱は惠英が学級長に選ばれたと聞き、娘の頬にキスをして、学校に行く準備を手伝ってあげた。そして事件当日には、惠英が演劇で宣祖ソンジョ8李氏朝鮮の第14代国王。豊臣秀吉の侵攻を受けた時代の王で、韓国ドラマ『ホジュン』にも登場することで知られる。の役を務めるというので、冠を作ってあげてから出勤した。それが父娘の最後だった。

 事件の後、朴興柱は金載圭情報部長、鄭昇和チョンスンファ陸軍参謀総長が乗る車の助手席に同乗し、陸軍本部へ向かった。この時、朴興柱は、金部長と鄭総長の間で既に大統領暗殺の計画が準備されているものと思っていた。朴興柱は金載圭連行作戦を開始していた国防部憲兵中隊長に誘き出されて武装解除されたが、まだ拘束されていなかった彼は一旦中央情報部庁舎に向かった。それから部長専用車に乗って、運転手に住宅街を走らせた。彼は杏堂洞ヘンダンドンにある、車が入って行けない丘の上の自宅に向かって走って行った。家から出てきた妻に「今日は仕事があって帰れない。このまま行く」とだけ告げて、走り去ってしまった。彼は再び車を走らせ、煙草を吹かしたり、部長の行方を捜したりしながら、情報部本庁舎に辿り着いた。朴興柱はそこで合同捜査本部捜査官たちに拘束され、連行された。

 朴興柱が連行されると、妻子はマスコミの前で泣いて救命を訴えた。二人の娘は「박흥주パックンジュ 우리ウリ 아빠アッパ 살려주세요サルリョジュセヨ(朴興柱、私たちのお父さんを助けてください)」という垂れ幕を持っていた。

報道陣の前で朴興柱の助命を訴える家族 ©한국일보

 朴興柱の妻・金妙春キムミョチュンは夫と同じ心を持っていた。朴興柱に死刑判決が下された後のことだった。金載圭を英雄視する社会の空気が流れると、自宅を訪れてきた機関員から「金載圭を非難する声明を出せば、夫を助けてやる」と告げられたという。何より夫の救命を望んでいたにも関わらず、金妙春は「それはできません。直接顔も合わせないで、夫の上司である金部長をどうして非難できますか」と拒絶したのだ。

 朴興柱は新婚時代に妻を伴って、挨拶のために金載圭の家を訪れたことがある。金妙春の目には、意外にも金載圭の家は家具も質素で、全てが慎ましく見えたという。金載圭の妻・金英煕キムヨンヒに対しても上品で、もの静かな印象を抱いた。

 金妙春はまた、次のようにも話した。

「私も人間ですから、一時は、金部長との繋がりがなければ夫は死なずに済んだのにと思ったことはあるのです。ですが、あの方を恨んではいません。本当です。あの方はやらなければならないことをしたのだと思います。もし10.26がなければ韓国がどうなっていたかを考えれば、必然だったと思うのです」

 朴興柱は妻に遺言した。

「子供たちには、パパはやるべきことをやった、今回もそうだったのだとよく言い聞かせて、劣等感に苛まれないように、誇りを持たせてあげてください。先々生きていく家族のために話せることはなくなってしまったが、世の中のことがもっと分かってくるでしょう。そして、社会が死ななかったら、我が家を放っておかないでしょう。精神的にも経済的にも助けてもらえると思う。たとえそうならなかったとしても、毅然として、堂々と生きて行けばいいじゃないか」

 さらに二人の娘にも遺言した。

「お父さんがいなくても絶対落ち込んだりしないで、これまでと同じように堂々と生きなさい。お父さんは少しも恥じ入ることのない人間だ。私たちが生きていく上で最も重要なことは、どのような選択をするかなのではないかな。自分で決めた選択には責任を負うものだ。後悔しない選択をしなければならない」

 現役軍人である朴興柱は、ただ一人、1審のみで死刑が確定した。死刑執行直前、彼は次のように遺言した。

「私の祖国である大韓民国は、希望のある国家であり、その国民たちによって作られている。大業である祖国統一を目的とする限り、我々国民はどんな難関があっても、これを知恵で克服し、民族の新たな繁栄と発展を成し遂げることができた。主が我々に与えてくださったこのような試練も、全国民が数千年に渡って困難が起こるたびに手堅く対処してきた偉大なる民族魂を発揮して、互いに信じて尊重し合い、一つの目的のために団結してきた国民が、より一層喜びの心を持って国家に奉仕し、苦楽を共にし、この機会を新たな繁栄の場としてくださることを願う。強い誠意、盾でもあり兵器でもある主は私を育んでくださり、今日この時まで受け入れてくださった我が大韓民国国軍を、その力強い右手で守り、導いてくださり、盾と城として、塩の使命9キリスト教徒的な視点による言い回しを果たすと信じます。妻に言い遺しておきたいことは、子供たちを、国に奉仕できるように、しっかり育てて欲しい。最後に、私を心配してくださった方々に感謝いたします」

 1980年3月6日、朴興柱は、京畿道始興郡シフングンにある33師団遊撃訓練場で、他の二人の死刑囚とともに銃殺刑に処された。彼は最後に「大韓民国万歳、大韓陸軍万歳!」と叫んだ。
 10.26事件の裁判が進行中、朴興柱は主犯の金載圭よりも先に死刑に処された。40歳だった。

選ばれた三人の悲運

 金載圭から「出来るヤツ三人を選んで援護しろ」と命じられた朴善浩が、咄嗟に選んだ三人が李基柱イギジュ柳成玉ユソンオク金泰元キムテウォンだった。彼らもまた、軍出身者であったがために、ただ命じられるがままに行動を起こしたに過ぎない。朴善浩や朴興柱と同様に、上命下服の関係から逸脱するような考えを持っていなかったのだ。
 三人はいずれも妻と幼い子供を残したまま、30代の若さで、主犯の金載圭らとともに絞首刑に処された。

海兵隊の繋がり――李基柱

李基柱

 朴善浩に目を付けられた一人が李基柱(当時32歳)だった。彼が選ばれた理由は、朴善浩と同じ海兵隊出身だったからだ。李基柱は朴善浩に対して、警備職から管理職へ引き上げてもらった恩があった。

「部長の指示だ。銃声が聞こえたら君たちは厨房の警護員たちを取り押さえろ。銃撃してきたら撃て」
 李基柱は逃亡したかったが、重い直した。彼は法廷で次のように陳述した。

「ひとたび海兵隊員となれば、永遠に海兵隊員である。課長の信任に対して拒絶するなどあり得ないではないか。有事にあっては命を懸け、忠誠を誓えと、課長に言われてきたことをしたまでです」

「よりによって課長はなぜ私を選んだのかと恨んだこともありましたが、私を信用してくださったからだと自分に言い聞かせました」

 弁護士から選択の余地はなかったのかと問われると、李基柱は「上官の指示であれば無条件に従って死ぬものだ」と答弁した。

 李基柱には当時、母親と妻、そして息子二人がいた。

苦労人・柳成玉の悲運

柳成玉

 柳成玉は事件当時36歳だった。京畿道高陽キョンギドコヤン出身で、2歳で母を亡くし、継母に育てられた。父は薪を拾って売り、柳成玉自身も中学を退学して、ゴミを拾って生活費にするという孤児同然の生活をしていた。柳成玉は陸軍に入隊してベトナム戦線に赴いた。帰国後に除隊して、運転手として中央情報部に勤務した。自ら頼んで宮井洞安家にある朴善浩課長の乗用車の運転手となった。
 柳成玉は10月26日当日、結婚式の招待状を渡したばかりだった。既に妻子ある身だったが、式を挙げる機会がなかったからだ。

 彼は気性が荒っぽく、胆力のある男だったために、朴善浩から10.26事件の実行役として選ばれた。
 柳成玉は捜査本部の取り調べにおいて「朴善浩課長から辞めろと言われれば、その場で失職する立場にあった」と話している。また、法廷で「朴善浩課長の命令に背いたら殺されると思った」とも陳述した。彼は隙を見て逃げることも考えていたという。
 柳成玉は西氷庫分室での過酷な拷問に耐えられず、ラジエーターに頭を突っ込んで自殺を図ろうとしたが失敗に終わった。

 柳成玉は処刑前日に教化担当者と次のように会話したという。
「首に縄を掛けられたら、ザラザラして痛いですか?」
「そんなことを考えるのはおやめなさい」
「しょっちゅう夢に見ます」
「マニラ麻で作ったものだからザラつかないでしょう。安らかに逝けますよ」

金泰元は無実か

 事件当時32歳だった金泰元は、高校を卒業後、陸軍に入隊。兵長で除隊し、1974年に中央情報部の警備員として採用され、76年から宮井洞安家の警備員となった。
 李基柱や柳成玉と違って、朴善浩と特別な関係を持っていた訳ではなかったが、カ棟10A棟や1号棟のような意味。ハングルのカナダラマ式呼称。の入口で警備に立っていたところを、機敏だからという理由で呼び出された。彼もまた、上司の命令に逆らうという選択肢は持っていなかった。

 朴善浩は建物内の様子を李基柱に尋ね、警護員らの負傷者がいることを聞かされると、生きている者がいれば始末するように命じた。李基柱は金泰元に、朴善浩から命じられたことをそのまま伝えた。

現場検証時、銃を構える金泰元

 金泰元は警護員待機室で倒れていた安載松と鄭仁炯を撃った。そして宴会場に行き、仰向けで倒れていた車智澈の腹部に向かって二発撃ち込んだ。厨房内で倒れている金鏞燮キムヨンソプに向けても撃った。一緒に倒れていた食堂車運転手の金勇南キムヨンナムや、調理師の金日先キムイルソン李正五イジョンオは救出された。その場で気を失って身動きしなかった朴相範パクサンボムは、警護員でありながら金泰元による銃撃を免れて九死に一生を得た。

 10.26事件で命を落とした警護室職員に対する検死は行なわれていないが、金泰元によって銃撃された時にはいずれも既に死亡していたのではないかと推測されている。

 金泰元は、趙甲濟チョガプチェの著書『朴正煕、最後の一日(朴正煕의 마지막 하루 10·26, 그날의 진실)』では、怯えながら消極的に銃撃したとされるが、弁護士の姜信玉に面会した時には毅然とした態度で、このように言ったという。
「先生、瓦全玉砕という言葉がありますが、私はまさにそのような気持ちです!」

 金泰元には、妻と、まだ幼い二人の子供がいた。

部下たちの遺族、その後

 金載圭は法廷で、部下たちは否応なく命令に従っただけなので、死刑だけは免じて欲しいと訴えた。また、自分の財産を部下たちの遺族のために使って欲しいとも訴えたが、それらはいずれも叶わなかった。
 また、金載圭は妻・金英煕に、部下たちの子女の学費を支援するように遺言し、金英煕は物心両面で支援したという。

 朴善浩には妻と2男2女がいた。純福音協会の信徒だった朴善浩の妻は、10.26事件後は信仰に専念した。

 朴興柱の家族の生活は、彼のソウル高校の同窓生たちによって支えられた。優れた軍人と評判だったこともあり、全斗煥チョンドゥファン大統領自ら朴興柱の遺族への年金支給を考えていたのだが、法的な制約によって実現しなかった。
 長女・惠英は結婚し、ドイツに留学して博士課程を経た。次女も結婚したが、弟が軍に入った後は闘病していた母・金妙春と一緒に生活した。

 李基柱の妻は、ソウル市内の病院で栄養士として勤めた。

 柳成玉の妻は商売をして、大学に進学した二人の息子を支えた。

 金泰元には二人の息子がいた。妻はプロテスタントの伝道師となり、牧会に専念した。

参考資料