金載圭外伝 三族を滅する罪

金載圭の遺族が提供した家族写真 ©비운의 장군 김재규

 1979年10月26日、当時政権ナンバー2の座にいた金載圭キムジェギュ中央情報部長が朴正煕パクチョンヒ大統領を射殺したことで、金載圭の親族たちは一夜にして”反逆者の一族”となった。

 金載圭の従兄キム・ジェオクは金寧金キムニョンギム氏本家に当たり、善山ソンサンで農業を営んでいたが、朴正煕の故郷である上毛里サンモリの住民たちによって家に火を点けられてしまった。さらに長男キム・ジンベクは合同捜査本部に連行され、金載圭から買い与えられていた150坪の土地を献納させられた上に、横領罪で2年服役した。父親も息子の件で調査を受ける羽目になった。

 金載圭の従姉の子に当たるチョン・ヨンドゥは、金載圭が設立した中京チュンギョン高等学校で国語教師を務めていた。彼は金載圭の弁護団を構成しようと尽力していたために、流言飛語流布容疑で合同捜査本部だけではなく、警察署にも連行されて責め苦を受けた。

 金載圭の再従妹はとこキム・チャブンは、看護師として金載圭の健康を管理していたが、事件後に連行され、寝食もままならずに薬物拷問を受けた。彼女はひと月ほど獄中生活を送った後に釈放されたが、妄想症と視覚・聴覚障害の後遺症に苦しんだ。

 親族に限らず、影響は金載圭の同窓生にまで及んだ。金載圭から便宜を受けた者は調査を受け、職を失うなど苦難を被った。

 金載圭の犯した罪は、まさに”三族を滅する”に等しいものだった。

妻・金英煕と娘・金壽英夫妻

 金載圭の妻・金英煕キムヨンヒは、10.26事件後、合同捜査本部に連行されて拷問を受けた。長らく社会的な生活も送れないほどの心身の後遺症に苦しみながら、しばらくは普門洞ポムンドンの自宅で過ごしていた。

 財産を没収されたため、実父から財産の一部を譲り受け、夫の遺言に従って、死刑に処された部下の子供たちを物心両面で援助した。
 その後は普門洞の自宅を売り、京畿道城南市キョンギドソンナムシ盆唐プンダンに移ったとされる。

 金載圭は妻に「俺が死んだ後は尼になれ」と遺言していた。金英煕は、夫の遺言に反することに心苦しく思いつつも、1988年にカトリック信徒となり、「エリザベート」という洗礼名を受けた。

 金英煕は1990年に訴訟を起こし、自宅や土地などを取り戻して、軍人年金も支給されるようになった。

 一部では「金英煕が100億ウォンもの財産を保有し、江南区方背洞カンナムグパンベドンにある15階建ての高級マンションに住んでいる」と報じられたが、その他の報道機関は「金英煕が没収された財産を取り戻した」とだけ報じており、真偽のほどは定かではない。 

 一人娘の金壽英キムスヨンは米国留学中に全弘健チョンホンゴンと知り合って結婚した。全弘健は、朴正煕政権の経済参謀だった全信鎔チョンシニョンの三男である。
 10.26事件当時、米国にいた金壽英は難を逃れたが、第5共和国1全斗煥政権時代期には母・金英煕と会うことができなかった。全斗煥チョンドゥファンが退任し、民主化して盧泰愚ノテウ政権になってから、ようやく母娘は再会することができた。

 金壽英は韓国に帰国し、ソウル市内の延禧洞ヨニドンで生活した。「チョン・フェリシア(Chun2CHUNは「全」の英字表記 Felicia)」という米国名で、青少年の教育を目的とした非営利組織・トギョン3ハングル表記は「덕영」で、덕は金載圭の号「德山」あるいは「德村」の「德」から付けられたとされるが、それらの号の出典は不明。趙甲濟の著書によると、金載圭の号は「水理」とされている。영の漢字表記は不明。財団の理事長を務めた。2020年時点では、母・金英煕ともに米国で生活していると伝えられている。

 金壽英の夫・全弘健はのちに金浦キムポ大学理事長となるが、大学創設者の父・全信鎔と大学の主導権を巡って骨肉の争いを繰り広げた。
 全弘健は、2020年に教職員の親戚・姻戚を入学させては自首退学させて新入生の数を水増しさせた容疑で、大学教授ら11人とともに在宅起訴されたが、2024年には無罪判決を受けた。

 また、2020年に秘書に対する性的暴行事件が発覚して自殺した朴元淳パクウォンスン4女性人権弁護士として知られ、ソウル市長を3選した。元ソウル市長が亡くなる直前まで使用していた市長公館の所有者が、全弘健の弟チョン・ホンドクであることが分かった。
 朴元淳は「美しい財団アルムダウンジェダン(아름다운재단)」理事長時代に、金載圭の居住地を買い取ったことがあったため、保守層から批判を受けていた。

内妻・張貞伊とその息子

 10.26事件後、合同捜査本部は金載圭の”蓄財蓄妾”を公表した。
 のちの取材によって、金載圭の不正蓄財疑惑は晴らされたが、内縁の妻子が存在していたことは事実だった。

 その家には、張貞伊チャンジョンイと二人の息子、そして、張貞伊の年老いた母が生活していた。年少の息子は養子だと言われている。年長の息子も金載圭の生前に血液検査で実子ではないと判定されたが、彼の姿には金載圭の面影があったという。

 北朝鮮平安道ピョンアンド出身の張貞伊は、韓国に渡って練炭配達で生計を立て、飲食店を開業。そこから江北区カンブクク牛耳洞ウイドン鍾路区仁寺洞チョンノグインサドンで高級料亭を営むまでに至った。その料亭に通っていたのが陸軍保安司令官時代の金載圭だった。
 張貞伊と関係を持つようになった金載圭は、彼女を夫と離婚させた。張貞伊が男児を出産すると、龍山区西氷庫洞ヨンサングソビンゴドンにある中京学院の土地の一部を男児の名義で買い取った。
 金載圭は月に1~2回ほど来て、生活費を与えていた。家には管理人と運転手が付き、息子には乳母と家庭教師が付けられるほど内縁の妻子は裕福な生活を送った。

 しかし10.26事件後、生活は一変した。新軍部は内縁の妻子が住む自宅も没収した。張貞伊は3年服役したが、出所後もその家から立ち退かなかった。その土地はソウル市教育庁に渡っていた。
 張貞伊はソウル市を相手取り、土地の所有権を主張する裁判を起こした。1審で敗訴したが、控訴審では勝訴した。その闘いには二十年以上の歳月が費やされた。

 張貞伊は近所の住民の間でも尊大な性格で知られていた。「土地が戻ったら記念碑を建ててやる」と豪語していた。空になった預金通帳を捨てられず、過去の栄華を忘れられない様子だったという。

張貞伊、横領罪で起訴

 2000年、張貞伊は再び世間を騒がせた。彼女は詐欺・横領の疑いで、元国会議員・姜信祖カンシンジョとともにソウル地検刑事1部によって拘束され、起訴された。

 検察によると、姜信祖は去る3月24日、某氏に接近し「青瓦臺秘線チョンワデピソン5非公式な業務を指す。崔順実ゲート事件で特に話題になった言葉。組織の会社を運営し、外資誘致を担当している」と詐称。「忠清南道保寧市大川チュンチョンナムドボリョンシデチョン海水浴場内のホテル敷地買取資金で外資2千万ドルを投入して銀行に誘致しているが、借款引出に必要な弁護士費用1億ウォンを貸してくれたら、一週間内に2億ウォンにして返済する」と言って、1億ウォンを騙し取った疑い。
 また、張貞伊は姜信祖から1億ウォンを受け取り、自身の口座に預け入れ、同日のうちに7千万ウォンを引き出して横領した疑い。

 姜信祖は青瓦臺の名を騙り、ほかにも詐欺罪を繰り返していた疑いがあり、被害額は相当な金額に上るという。姜信祖と張貞伊は第3共和国6朴正煕が大統領に就任した1963年から、維新憲法が宣布されるまでの1972年までの体制を指す。時代から懇意にしていた間柄だった。

息子たちの困窮

 張貞伊は近所との交流を拒否していた。教会に通っていた彼女の老母の世話のために自宅を訪問した信徒たちも門前払いを被った。上の息子も人間不信となり、接触を嫌っていた。知的障害を持つ下の息子は時々近所の店の留守番を預かることがあった。時折この家に出入りするのは、張貞伊の孫娘7この孫娘は張貞伊の娘の娘だという。張貞伊には金載圭によって離婚させられた夫がいた。だった。彼女はこの家の息子たちを「三寸サムチョン8三親等の意。叔父さん。」と呼んだ。

 毎朝運動を行なうほど元気に生活していた張貞伊だったが、2008年12月に脳卒中で急死した。100歳の老母が亡くなって間もないころだった。

 張貞伊の死後、大法院9最高裁判所判決で敗訴が確定した。
 残された息子たちは生まれ育った家から立ち退かなければならなかった。家の敷地内には廃棄物が置かれたままで、庭木や雑草が生い茂って廃屋同然の姿になっていた。
 財産を使い尽くしてしまい、家の電気や水道が止められ、息子たちは暖房も使えない困窮した生活を送っていた。上の息子は、かつてベルトやアクセサリーを輸入して販売する事業を営んでいたが、経営に失敗して、その後は派遣で運転手をして、借金を返済しながら、弟の面倒を見ていたという。

 上の息子は2009年に、東亜日報の取材に対して、次のように打ち明けている。
「父が死刑となった後、うつ病と対人恐怖でまともな社会生活を送れませんでした。『逆賊の私生児』と後ろ指をさされることに耐えられず、普段は隠れて生きてきましたが、その家からも追われることになり、惨めな気持ちしかありません」
「事件が起こる前に、父が『これから暫く私がいなくても元気に過ごさないといけないよ』と話していたことがありましたが、その時には維新ユシン政権を終わらせる決意をしていたようです。あの時に戻れたら父を止めたいですよ」

 法院10裁判所は執行官を派遣して、退去要請を行なった。ソウル市教育庁は息子に対して「基礎生活受給対象者支援を受けて公営住宅で生活できるように支援する」と表明した。
 しかしその後、上の息子は生活に困窮し、行き倒れた末に病院に運ばれたが、死亡したと伝えられている11公式なニュースとして報道された訳ではなく、伝聞が広がっている

次弟・金恒圭

 金載圭は八人兄弟の第一子で、すぐ下の弟が金恒圭キムハンギュだった。
 金恒圭は建設業を営んでおり、金載圭が建設部長官を務めていたころは、海外の建設事業にも着手し、公務員であり権力者であった兄と実業家だった弟は手を取り合って成功の道を順調に歩んでいた。
 しかし、兄が起こした大統領弑害しいがい事件により、弟の人生も奈落の底に転落した。金恒圭も兄同様に西氷庫分室に連行され、凄惨な拷問を受けて財産献納書に署名させられている。主体的に行動を起こして転落した兄と違って、金恒圭は自身の意思とは無関係なところで事件に巻き込まれて、心身ともに苛まれた。

 職も財産も奪われた金恒圭は、僧侶にはならなかったものの、慶尚北道奉化郡キョンサンブクトボンファグンにある大韓佛教佛乗宗太白山現佛寺テハンプルキョブルスンジョンテベクサンヒョンブルサに入山して「惠雲ヘウン」という法名を授かり、修道を歩んだ。
 全斗煥政権下の1985年、現佛寺が慰霊塔を建立したため、金載圭への追悼碑と見なされて捜査を受けたことがあった。

 金恒圭は亡くなる直前まではソウル市城北区東小門洞ソンブククトンソムンドンにある六畳間ほどの狭い韓式家屋に住んでいた。
 彼は1995年に、ブレークニュースの発行人であるムン・イルソクから二度に渡って取材を受けている。
 金恒圭は、兄から渡された朴正煕大統領自筆の親書を受け取った時、困惑したという。彼はこの親書を終生保管していた。

 金載圭の死刑執行前日に交わされた兄弟の会話の中で、金恒圭は少なからず兄に対して懐疑的な様子を見せていたが、のちに彼は兄の行為を肯定する発言を残している。
「批判する方々もおられますが、兄は歴史の流れを変えたのだと思っています。兄は金泳三キムヨンサム金大中キムデジュンのような民間の政治家が国を率いることを切実に望んでいました。軍事政権が国を主導する時代は去ったのだと見越していたのです」
「兄は朴大統領を愛していたからこそ殺害したのです。大人の道と小人の道は違います。自身が奉じる大統領を殺すということは即ち自身を殺すということですから」
 また、隣りにいた妹のキム・ジェソンも「私は兄が独裁政治を倒した革命家だと信じています」と語った。

 金恒圭は「私が好きな雪松ソルソン住職12現佛寺の住職の法文があります」と次の言葉を伝えた。

無風天地無花開(風が吹かない天地に花は咲かない)
無露天地無結實(露が降りない天地に実は生らない)

 金恒圭は拷問による後遺症に苦しみながら、1997年に死去した。

母・權有今と末弟・金英圭

 權有今クォンユグムは幼少期の金載圭を鞭で叩いてしつけ、近所でも評判の厳格な母親だった。仏教に深く帰依していた權有今は、殺生を強く戒めていた。息子が大統領弑害事件を起こした際には「いにしえであれば天子にも値する大統領を殺めたお前が、なぜ生き永らえようとするのか」と潔く死を受け入れるように説くほどだった。娘たちには「倅は間違っていないが、人を殺したのでその代償を受けているのだ」と話していた。一方で「孝行息子は不忠ではない」と、金載圭の意志を慮ってもいた。

 金載圭が処刑された後、權有今は逆縁となった息子の墓地に一度も足を運ばなかった。
 權有今は三年ほど現佛寺に通って息子の極楽往生を祈り、その後はソウル近郊の寺院に通って祈りを欠かさず、朝夕も寝る間を惜しんで法華経を唱えていた。

 2001年、權有今は98歳の天寿を全うした。

 金載圭の末弟・金英圭キムヨンギュは八人兄弟の末っ子で、長兄の載圭とは親子ほども歳が離れている。彼は陸軍士官学校を卒業して、10.26事件当時は陸軍中尉として勤務していた。
 事件後、大統領弑害犯の家族となった彼は、仏典や聖書を読んで心を鎮めた。

 長兄が処刑され、次兄・金恒圭も病死したため、母・權有今を弔うのは金英圭の務めだった。
 權有今の位牌は、金恒圭も入山した太白山現佛寺に祀られている。

 金英圭は、現役軍人であるという理由で多くを語らなかったが、次のような言葉を残している。
「母が亡くなる時、兄に関する特別な遺言はありませんでした。ただ、母は生前兄のことを、とても親孝行だったとよく話していましたね」
事必帰正サピルクィジョン13「事は必ず正しい方向に帰る」という意味の韓国の四字熟語です。兄に対する歴史的評価は家族の手から離れて久しい。私は軍の規律に則って、正しく生きようと努めています」

 しかし、大統領弑害犯の弟として要注意人物と見なされた金英圭は、武器を扱わない部署のみを転々とさせられる冷遇を受け、結局大領14大佐の地位で予備役に編入され、軍服を脱いだ。その後はソウル市内で翻訳業をしていると伝えられる。

妹・金檀姫

 金檀姫キムダニは、金載圭の四番目の妹である。幼いころの檀姫は、兄のジープが到着すると「お兄ちゃんが来た!」と駆けつけていくほど金載圭に懐いていた。金載圭は、淑やかな檀姫を特に可愛がり、靴を買ってあげたり、中華料理店に連れて行くなど、父親のように面倒を見ていた。檀姫は大きくなっても兄・載圭にくっついて回った。

 金檀姫は、10.26事件後の1985年に夫とともに米国に移住した。移住前までは、住宅の周辺を治安本部対共15対共産党捜査課によって監視されていた。米国への移住を知った直後から、ひっきりなしに電話を掛けてきては様子をうかがってきたという。
 金載圭の背後には米国がいるのではないかという疑惑がつきまとっていた。金檀姫はそれについては流言蜚語だと否定する。
 権力者である中央情報部長の身内ゆえに不正蓄財をしているのではないかという疑惑の目も向けられていたが、実際は陸軍中領だった夫の月給と、金檀姫が働いて貯めた分が全てだった。米国移住後は喫茶店を営み、一日13時間働く日々を送った。

 金檀姫は、兄・金載圭の追悼集会に参加することすら警戒心を抱かざるを得なかった。家族が主導して行なっているように見えるのではないかと気になり、参加には消極的だった。

 金檀姫は次のように話している。
「兄は『高い意識で国のために働く人材となる学生たちを共産主義者に仕立て上げて廃人同然にしてしまう状況は問題だ』と話していました」
「朴大統領が、車智澈チャジチョル警護室長の言うがままに数多くの人間を殺すので、兄は(大統領殺害を)決心したのです」

 また、金檀姫は兄が事件を起こしたことによって”弑害犯の家族”になってしまったことについて次のように語った。
「兄のしたことで私たち家族は苦しみましたが、兄に対する恨みは全くありません。幼いころから見てきましたが、不当なことはしない人でした。非常に堂々としていて、正義感の強い姿を見てきたのです。私たち妹弟きょうだいは兄から精神的に強い影響を受けています。兄を弁護した姜信玉カンシンオク弁護士が『この家の人たちは革命家の家族そのものだ』と言うほどでした」

 金檀姫が取材を受けたころ、ちょうど朴槿恵パククネが大統領候補として立っていた。
「私は軍人の妻でしかなかったので、兄の苦悩と同じレベルで考えられませんでした。兄は『野獣の心で維新の心臓を撃った』と言いました。自身が野獣となって、多くの国民の命と引き換えに大統領一人の命を奪ったのに、多くの人が国民の命を重く見ず、結局大統領一人の命の方を重く見て、この期に及んでもその娘を支えている始末です……。独裁に抗議して共産主義者にされて拷問を受けて亡くなった人たちの家族は別にしても、韓国では大統領を昔の君主のように思って不憫に思うようです。けれども長い歳月が流れても、過ちは隠し切れません。今ではそんな評価もあるので安堵しています」

 そして、金載圭を「悖倫児ペリュンア16背信者という意味」と呼んだ朴槿恵に対しては、強い不満をあらわにした。
「兄は当時、釜馬プマ抗争を民乱だと判断しました。それゆえに『槿恵たち姉妹が光化門クァンファムンの十字路から惨めに追われて出て行く姿を考えると』と同情したのです。民乱が起きたら大統領の家族はただでは済まないでしょうから。そんな惨めな姿を想像したから、兄は子供たちを心配したのです。それなのに朴槿恵は兄を悖倫児だ何だのと、よく言えたものですね。実際に兄は大統領の子供たちに対して心を痛めていたのですよ」
「朴槿恵も父親を失ったが、自身が政治を行なって、父親が当時何をしていたのかよく分かっているのではないですか」

妹キム・ジョンスク夫妻

 キム・ジョンスクは、金載圭の三番目の妹に当たる。

 2020年6月、キム・ジョンスクは、兄の死から40年を経て、遺族代表として10.26事件の再審を請求した。当時、全斗煥陸軍保安司令官が指揮した合同捜査本部によって起訴された「内乱目的殺人罪」が事実ではないことを明らかにしようとしている。彼女は夫のキム・ヤンファンとともに取材を受け、兄の真意を訴えてきた。

 キム・ヤンファンは次のように語った。
「義兄は、自分が死んだら軍服を着せて棺に納めて欲しいと遺言するほど軍人としての矜持がありました。国会議員や長官も務めたが、それらに誇りを持ってはいませんでした」

 そして、金載圭との会話を回顧した。
「お前は維新体制をどう思うか」
「核心として関わっているのですから、義兄さんもいつかは責任を取らなければなりません」
「金書房ソバン17婿や義弟に対して使われる呼称。「旦那」のような意味。もそう思うか」
 金載圭が維新体制に疑念を抱いていた様子がうかがえる逸話である。

 妹キム・ジョンスクは「兄は父親からの『不義に屈してはならない』という教えに忠実に生きていた」と語る。
「私が『兄さん、そんな噂(大統領が酒席に女性を呼んで接待させる)があるんですってね』と言うと、兄は『そのことに一番悩んでいるよ。五人の妹がいる俺がそんな仕事をするのはつらいんだ。お前たちは聞かなかったことにしろ』と言っていました」

 そして、死刑前日に面会した時の様子を次のように語った。
「兄は『俺のためではなく、大統領の子供たちのために祈りなさい』『俺の命を救うために心血を注がなくていい。俺は死んで当然なんだ。生かされたところで、事が成就すれば自決するつもりだ』と話していました」

 映画『南山の部長たち(남산의ナムサネ 부장들ブジャンドゥル)』を視聴した妹家族は「以前の映画『ユゴ 大統領有故(그때クテ 그사람들クサラムドゥル)』は悲劇を茶化したようで不快だったが、この映画は期待以上に人間・金載圭の苦悩が込められていた。40年ぶりに事件を顧みる機会を与えてくれたことに感謝する」と評価した。
 一方で、崔太敏チェテミン事件について触れられていないことについては、いささかの不満があったようだ。
「世間では車智澈との権力闘争が取り沙汰されますが、崔太敏問題もかなり重大な要因でした。義兄は娘(朴槿恵)の言葉ばかり信じる朴大統領が自分の側にいないと感じたようです」

 金載圭の甥に当たるキム・ソンシンは、10.26事件当時は国民学校18現在は「初等学校」と呼ばれる。日本の小学校に当たる。6年生だった。伯父・金載圭に対する印象を「思いやりがあって、家族から尊敬されていた」と語った。

10.26事件、再審確定

 2025年5月、ソウル高法19高等裁判所再審裁判部が、金載圭に対する捜査の過程で、数日に渡って殴打や電気拷問といった過酷な暴行が行なわれたことを認め、再審の決定を下した。検察が抗告したが、大法院によって棄却され、10.26事件の再審開始が確定した。

参考文献