運命の岐路
金載圭、鄭昇和を連れ出す
一方、鄭昇和陸軍参謀総長と金正燮情報部第二次長補は夕食を取りながら、釜馬事態を話題に上げていた。
デザートに移るころ、銃声が鳴り響いた。尹炳書儀典秘書がインターフォンで確認しようとしたが、何事か分からないままだった。
それから間もなくして、金載圭中央情報部長が「水、水、水!」と靴も履かないまま駆け込んで来た。汗びっしょりのワイシャツ姿で、彼は水差しからそのまま水を一気に飲み干した。そして「総長、大変なことになりました」と言って、鄭昇和の腕を掴んで玄関まで連れ出し、一緒に車に乗り込んだ。
朴興柱大領が助手席に乗った。金正燮も乗るように促され、金載圭や鄭昇和と共に後部座席に座った。鄭昇和が二人の金の間に挟まれる格好となった。
金載圭は運転手の柳錫文に、南山1中央情報部庁舎のある場所に行くように指示した。
「何があったのですか」
金載圭は親指を突き立て、手振りで大統領有故2事故があったという意味を示した。
「閣下が亡くなられた!? それは本当ですか」
金載圭は鄭昇和の問い掛けには答えずに言った。
「保安を維持しなければなりません。敵に知られたら一大事です」
「どういった状況で亡くなられたのですか?」
「狙撃されました」
「外部からの侵入ですか? 内部の仕業ですか?」
「私も慌てていたので、よく分かりません」
「誰の犯行なのですか?」
鄭昇和は、状況がよく分からないと話す金載圭に改めて尋ねてみたが、返答はなかった。この時、鄭昇和は車智澈警護室長の仕業ではないかと疑っていた。
行き先は情報部か、陸軍本部か
車が三一高架道路31969年に開通。1984年に「清渓高架道路」に名称が変更されるが、のちに馬場洞から三一ビル(清渓2街)までの区間を清渓高架道路、三一ビルから南山1号トンネルまでの区間を三一高架道路とした。これらの道路は2006年に撤去された。に入り、分岐点に近づくと、先ほど「南山へ行け」と指示したはずの金載圭が、朴興柱に尋ねた。
「どっちに行くか……。部4中央情報部? 陸本5陸軍本部? どっちがいい?」
鄭昇和陸軍参謀総長が代わりに答えた。
「兵力を配置するなら陸本に行かなければなりません。B-2バンカー6地下式の軍事施設。掩体。へ行きましょう」
鄭昇和の答えに、朴興柱も追随した。
鄭昇和が改めて指示した。
「陸本バンカーに行きなさい!」
この時、行き先を中央情報部ではなく、陸軍本部に決めたことが金載圭と彼の部下たちの命運を決定づけたと今日まで語られている。
中央情報部に行けば、部長である金載圭の指揮によって絶大な権力組織を動員できるからだ。しかし金載圭は、自身の指揮下にない陸軍本部を選んでしまったのだ。大統領暗殺後の金載圭の行動が何の計画性もなく、支離滅裂であったと言われる所以であった。
午後8時5分頃、車が龍山にある陸軍本部バンカーに到着した。
ワイシャツ姿で靴も履かずに飛び出してきた金載圭は、予備の上着を着て、朴興柱がこの日買ったばかりの新しい靴を借りて履いた。
鄭昇和は状況室に入り、国防長官・空軍総長・海軍総長・陸軍司令官など主要指揮官たちに電話を掛け回った。
車智澈の最期
ナ棟正門で警備をしていた徐永俊は2発の銃声を聞いた。玄関から金桂元青瓦臺秘書室長が叫んでいた。
「早く来い! 閣下を病院にお連れしろ!!」
一方、李基柱と柳成玉は厨房に入って行った。倒れていた警護員が呻き声を上げていた。柳成玉が床に転がっている2挺の銃を拾っていると、金桂元の声が聞こえてきた。
「運転手、誰か一人早く来い!」
運転手を務めていた柳成玉は言われるがままに大統領専用車を運転することになった。李基柱も食堂管理者の南孝周事務官とともに朴正煕大統領を抱えて徐永俊に背負わせた。彼らは慌ただしく出て行った。
宴会場の入り口には、倒れた車智澈警護室長が取り残されていた。申才順と南孝周が車智澈を助け起こそうとした。車智澈は声を絞り出した。
「俺は……もう無理なようだ」
そう言うと、崩れ落ちるように倒れ、暫く呻き声を上げていた。
間もなくして車智澈は、目を見開いたまま絶命した。
朴正煕大統領の死
金桂元は、膝枕で朴正煕の頭を抱えるように車の後部座席に乗り込んだ。助手席には徐永俊が乗った。
車は国軍ソウル地区病院に向かったが、専属の運転手ではなかった柳成玉は道に慣れていなかった。朴正煕はこの車中で息を引き取っていたが、金桂元は気づいていなかった。病院に到着した後も彼は「この方をお助けしろ」と絶叫し続けていた。
医師たちは運ばれてきた人が大統領であることに気づかなかった。朴正煕の顔は血まみれだった上にタオルが掛けられていた。その上、身なりも質素だったからだ。
病院長の金秉洙空軍准将が呼び出された。身元が明かされないまま横たわる人物を診るように言われていた。その人物の死亡を確認した後に金桂元から電話が掛かってきたので、その件を伝えた。金桂元からは詳しい事情も説明されないまま、「遺体を丁重に安置せよ」と指示されるだけだった。
金秉洙は柳成玉と徐永俊から監視されていたが、口実を設けて遺体を再び確認し、それが朴正煕であることを悟った。
保安司令部から相次いで電話が掛かって来ていた。柳成玉の監視下で金秉洙は電話を受けた。相手は禹國一参謀長だった。
「色々と難しい状況にあるようですね。手短に訊くので、イエスかノーだけで答えてください」
「分かりました」
「亡くなられたのか」
「はい」
「コード・ワンか」
「はい」
「コード・ワン(Code 1)」とは大統領を指す隠語だった。朴正煕大統領の死が陸軍保安司令部に伝わった瞬間だった。
集まる場は青瓦臺か、陸軍本部か
金桂元秘書室長はタクシーで青瓦臺にたどり着いた。彼は咸壽龍警護課長に李在田警護室次長を呼び出すように、警護官にも国務総理・国防長官・法務長官・内務長官・陸軍参謀総長を招集するように命じた。
応対した警護官の全敬煥が保安司令部秘書室へ電話連絡した。彼は陸軍保安司令官・全斗煥少将の弟だった。金桂元は、全敬煥から実弾をもらって自身が所持していた銃7月刊中央『WIN』のインタビューによると、李基柱から奪い取った銃だという。に装填した。
最初に青瓦臺秘書室に到着したのは崔圭夏国務総理だった。午後8時30分頃だった。金桂元は崔圭夏に「金載圭と車智澈が争って、金載圭の誤射で大統領閣下が亡くなった」と伝えた。
続いて具滋春内務長官と金致烈法務長官が入ってきた。後から朴東鎭外務長官もやって来た。
同じころ、盧載鉉国防長官が陸軍本部バンカーに到着していた。盧載鉉が金載圭に状況を尋ねた。
「状況はよく分からないが、閣下が亡くなられたのは確かだ。一刻も早く戒厳令を宣布して保安を維持しなければ。極めて非常事態だ。敵が知ったら一大事だ」
金載圭は保安維持の主張を繰り返した。
そこに朴興柱がやって来た。彼は金載圭から、金桂元に連絡を取るように指示を受けていた。
金桂元からは青瓦臺に来るように言われたが、事情も分からぬうちに国防長官や参謀総長たちが青瓦臺に行くのは好ましくないので、金桂元秘書室長が陸軍本部に来るように伝えた。金桂元は一旦了解したものの、来られないという連絡が来たので、今度は金載圭が隣りの状況室から電話を掛けた。
「先輩ですか」
金載圭の声を聞いて、金桂元は慄いた。
「先輩、こっちに来てください。何もかも済んでるのに、一体そこで何やってるんですか。こっちに皆集まっているんですよ。総理を連れて来てください!」
金桂元は言葉に詰まってしまった。彼は金載圭が鄭昇和陸軍参謀総長を監禁しているものと思っていた。
一旦、電話を切ったが、再び金載圭から掛かってきた。
「国防長官もおられます。こっちに来てください!」
「国務総理はこっちにいるんだ。国防長官と陸軍総長を連れてこっちに来なさい」
「駄目です。今は行けません。総理と一緒に室長がこちらに来てください!」
金載圭の語調は強かった。
この時、盧載鉉国防長官は、青瓦臺が車智澈警護室長に掌握されているものと思い込んでいた。鄭昇和同様に彼もまた、車智澈警護室長の仕業だと思っていたのだ。
双方が誤解したままだったが、結局、金載圭に気圧された金桂元が国務総理たちと共に陸軍本部バンカーへ向かうことになった。
金桂元は、金載圭が大統領を射殺した犯人だと知りながらクーデター側に向かってしまったために、のちに共謀容疑を掛けられることとなった。
口論
陸軍本部バンカーの総長室に、崔圭夏国務総理・金致烈法務長官・具滋春内務長官・朴東鎭外務長官・盧載鉉国防長官・柳赫仁政務第一首席秘書官・金桂元秘書室長・金載圭中央情報部長・金正燮情報部第二次長補・鄭昇和陸軍参謀総長ほか各軍参謀総長・柳柄賢連合司令部副司令官らが集まった。
金桂元室長が「大統領有故」を伝えた。彼は金載圭の発砲が原因であることを、その場で伝えなかった。金致烈は既に銃撃したのは金載圭だと知らされていたが、金載圭は軍を掌握していないと判断していた。彼にそのような能力があるとは思えなかったのだ。
金載圭が口を開いた。
「さきほど閣下が亡くなられました。前方警戒を強化して、この事実を最低48時間は内外に知られないようにしなければなりません。非常戒厳令を宣布しなければ。米国にも秘密にしなくてはいけません」
「何の理由があって48時間も保安維持をしなければならないのですか」
「北傀8北朝鮮に対する蔑称による南侵の危険があるからです」
金致烈は、そのような保安維持は不可能だと反論した。南侵の危険があるなら、尚のこと出動準備なく、米国の協力も得ないまま備えることはできないと主張した。朴東鎭も、米国にすぐに知られてしまうし、大統領有故が外国メディアを通して国民に伝えられることを危惧した。
「私は金法務の考えと違う!」
金載圭が激昂した。金致烈は金載圭が銃を抜いて自分を撃つのではないかと戦慄を覚えた。
「状況を詳しく説明しなさい!」
「犯人は誰なんですか!?」
長官たちが口々に叫んでも、金載圭は戒厳令の宣布一点張りだった。口論の末に「戒厳令宣布」だけは合意に至った。
崔圭夏国務総理の呼びかけで、午後11時に非常国務会議を開催する運びとなった。
犯人は金載圭
話し合いの最中に金桂元は、金載圭が軍を掌握できていないことを悟ったが、金載圭が常に自分を監視しているように感じて、真実を伝える機会を逸していた。
金桂元は金載圭からトイレに連れ込まれた。
「おい、お前は……何で閣下にあんなことをしでかしたんだ!」
「保安維持が急務です。一刻も早く看板を戒厳司令部から革命委員会に替えなくてはいけません」
「分かった……」
金桂元は銃を所持していたが、何の抵抗もできないままだった。
午後10時30分、国防長官室で崔圭夏国務総理と各長官、金載圭と金桂元が会議の席に着いた。金載圭はここでも大統領逝去の事実を伏せたまま戒厳令を宣布することを強硬に主張した。
連絡を受けた長官たちが後から続々と駆け付けていた。その中に申鉉碻副総理もいた。
金聖鎭文化広報部長官が申鉉碻に、金載圭をなだめて説得して欲しいと頼んだ。申鉉碻は金載圭とは同郷で、互いに親近感を持つ間柄でもあった。しかし普段は礼儀正しいはずの金載圭が、その時はギラギラとした殺気に満ちていた。
「閣下は事故に遭われたのですか? 急病ですか?」
「金室長は閣下とずっと行動を共にしていたはずではないですか!」
「私も慌てていて、よく分からないのです……」
金桂元は、矢継ぎ早に長官たちから問い詰められていた。金桂元は金載圭の視線を恐れていた。
午後11時20分頃、柳赫仁政務首席が金桂元を隣りの待機室にそっと呼び出した。
「どうして何もおっしゃってくれないのですか。きちんとお話すべきですよ。これでは室長が誤解されてしまいますよ」
「ああ……分かった。そうしよう」
金桂元がうなずいた。
鄭昇和総長が国防部の長官室に入ろうとする時、金桂元と鉢合わせした。金桂元が「静かな所で話しましょう」と鄭昇和を連れ出した。国防長官補佐官の趙若來准将の案内で、彼の部屋に入った。盧載鉉国防長官も加わった。
「あの、金部長と車室長が争って、金部長の銃で閣下が亡くなられてしまって。金部長を逮捕しなければならないのだが、あんな風にギラギラと私ばかり睨みつけてくるので……」
「奴をすぐ捕まえなければいけませんな。総長、早く捕まえてください」
「私が必ず逮捕します」
「あの、気をつけてください。金部長はまだ銃を持っています」
鄭昇和は、金晋基陸軍憲兵監を呼び出し、金載圭逮捕の指示を出した。
「金将軍が直接金部長のところに行って、私がちょっと会いたがっていると伝えてください。あらかじめ廊下のカーブ地点に捜査官を待機させ、おびき出して上手いこと逮捕しなさい。金室長によると、金部長は銃を持っているようなので用心するように。逮捕の過程で騒ぎ立てたり傷つけてはいけない。逮捕後は保安司令官に引き渡しなさい」
金載圭、逮捕
「部長どの、鄭昇和陸軍総長が総長室で密かにお会いしたいとのことです」
趙若來が金載圭に耳打ちした。
「そうか。ところで秘書室長はどこへ行ったんだ?」
金載圭は終始、金桂元の居所を気にしていた。趙若來があちらにいると言って接見室の方向を指差して金載圭を誘い出した。接見室を通り抜けて廊下に出ると、金晋基が待機していて、金載圭に挨拶をした。
「総長はどこにいるんだ」
「陸軍本部総長室におられます」
金載圭が先を歩いて、後から保安司令部の呉一郎中領ら三人が続いた。
「……なぜこの道を行くんだ」
「この道は国務議員たちが使用する通路です。崔圭夏総理におかれましても、この道を利用されました」
外灯もない真っ暗な裏庭に出ると、車が待機していた。そこには憲兵が二人乗っていた。
金載圭が危機を感じた瞬間、呉一郎中領と李基德大尉によって車の中に押し込まれてしまった。
「武装を解除します! おとなしく応じてください!」
「……自分で渡す」
金載圭からリボルバー1挺を取り上げてシリンダーを開くと、実弾が1発残っていた。
金載圭を乗せた車は国防部を出て、三角地を走っていた。
「私をどこへ連れて行く気だ」
「総長の御指示で、部長どのを安全な場所にお連れしているところです」
「俺をどこに連れて行く気だ! 世の中は変わった。閣下は亡くなられたんだ! 今ごろは首都統合病院におられる」
車は貞洞に至ったが、運転兵は保安司令部分室ではなく、間違って隣りの情報部分室に行ってしまった。金載圭は安堵したが、それもつかの間、車はすぐさま保安司令部へ移動した。
保安司令部秘書室長の許和平大領が出迎えた。金載圭が大統領殺害犯であることを知らされていない彼は、金載圭を丁重に案内して、2階の部屋に軟禁した。
保安司令部捜査課所属の申東基が呼び出され、金載圭の”接待役”を任された。
金載圭は相変わらず、ひっきりなしに水を飲んでいた。彼は酒や香水、そして肝臓疾患特有の臭いを発していた。
丁重に対応するよう指示を受けていた申東基は、金載圭の上着を脱がせて、ベッドで休憩するように促した。
金載圭のワイシャツには血が多く付着していた。申東基はてっきり、金載圭が全斗煥司令官とケンカでもしたのかと思っていた。
「いや、部長どの、どなたとケンカなさったんですか?」
金載圭は親指を突き立て、それを下に向けて言った。
「閣下は亡くなられた。世の中は変わったんだ」
申東基はその時、金載圭が大統領を殺害した犯人だと察し、彼が逃げ出さないように衣服を脱がせて、ベッドでマッサージを施してやった。
「俺を陸軍刑務所かソウル拘置所に連れて行け。俺が捕まっていることが分かれば、情報部の部下たちがみだりに押し寄せてくるからな」
申東基は水を持ってくるという口実で部屋を出て、1階に下りて行き、許和平に金載圭が大統領殺害犯であることを報告した。この事実はすぐさま許和平から全斗煥陸軍保安司令官に報告された。全斗煥が指示した。
「金載圭を西氷庫分室に連行して調査しろ!」
申東基は、金載圭に服を着させて、護送車に乗せた。
途中、道を間違えた車が急旋回し、横転する事故に見舞われた。
深夜2時30分頃、金載圭を乗せた護送車が陸軍保安司令部西氷庫分室に到着した。
金載圭は被疑者用の作業着に着替えさせられた。
「俺が閣下を殺した。もう世の中はすっかり変わったんだ! 捜査官、君たちも生き延びる方法を探すことだな!」
彼はここでも脅し続け、捜査官たちを委縮させた。
中央情報部長であり、かつては陸軍保安司令官として君臨していた金載圭を捜査することに、捜査官たちは及び腰になっていた。金載圭に対して脊髄反射的に礼を正し、敬語を使っていた。金載圭は既に米国を背後につけ、軍を掌握しているかもしれないという惧れがあった。
李鶴捧捜査課長は意を決して、捜査官たちを鼓舞した。
「今、我々の手に国家の存亡がかかっている。命を懸けて捜査に徹し、一刻も早く金載圭の共謀者を暴き出さなければならない!」
李鶴捧は申東基に捜査を命じた。
朴正煕という太陽が沈み、中央情報部長という月が闇に閉ざされた。代って表舞台に登場したのが、この事件の合同捜査本部長であり、陸軍保安司令官の全斗煥少将だった。
参考文献
- 趙甲濟『朴正煕의 마지막 하루 10·26, 그날의 진실』朝鮮日報社 2005年
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山と呼ばれた男たち』講談社 1994年 【】
- 『시사월간 WIN』월간중앙 通巻42号 1998年11月号
- 『삼일고가도 8일 `역사 속으로’』한국경제 2006年4月4日
- 나무위키 namu.wiki/10.26 사건