金載圭伝(四)軍人から政治家へ

建設部長官時代の金載圭 ©국가기록원1976

二人妻生活

内縁の妻・張貞伊とその息子

 10.26事件後、合同捜査本部は、金載圭キムジェギュの不正事実として愛妾の存在を挙げた。
 その女性の名は張貞伊チャンジョンイという。彼女は1995年にMBCで放送された朴正煕パクチョンヒ政権実録ドラマ『第4共和国』でも実名で登場した。
 発表によると、金載圭と張貞伊の間には二人の子供がいるとされている。のちの報道では、兄弟のうち弟は張貞伊が養子として迎えた子供だとも言われている。

 金載圭が張貞伊と関係を持つようになったのは陸軍保安司令官時代。張貞伊はソウル市江北区カンブクク牛耳洞ウイドンにある高級料亭「仙雲閣ソヌンガク」の女将マダムだった。仙雲閣は”料亭政治”の場としても知られている。そして、1970年に起きた「鄭仁淑チョンインスク殺害事件」の被害者である鄭仁淑を朴鐘圭パクチョンギュ青瓦臺チョンワデ警護室長に紹介したのは、他ならぬ仙雲閣の”モンペマダム”こと張貞伊であった。

 当時、朴正煕はじめ権力者たちの女性遍歴は珍しいことではなかった。彼らは「ヘソの下の話は詮索するな」とたびたび冗談めかしている。多くの権力者たちが鄭仁淑と関係を持ち、丁一權チョンイルクォンは彼女を孕ませるに至った。10.26事件当時も、酒席で朴大統領の両脇には二人の若い女性が酌婦として招かれていた。そんな中で、金載圭が寵愛したのは、同世代の、それも「モンペ」という異名を持った苦労人の女性であった。

 張貞伊は北朝鮮・平安道ピョンアンドの出身だったが、韓国に渡り、練炭配達で生計を立てたのちに飲食店を開業し、仙雲閣の他にも鍾路区チョンノグで「都城トソン」という料亭を経営するまでになった。
 金載圭は保安司令官時代、張貞伊の料亭に足しげく通っていたため、周囲は関係を訝しく思っていたようだ。

 張貞伊は男児を出産すると、「金将軍の息子を産んだ」と主張した。しかし、妻帯者の金載圭にとっては公にできない存在であった1当時の韓国には姦通罪があった。韓国の姦通罪は男女平等で、配偶者のある者は男女どちらからでも告訴できた。2015年に廃止されている。。金載圭は周囲の人間に「自分の子ではない」と頑なに否定し続けた。
 金載圭の側近は張貞伊に表に出ずに静かに暮らすように勧めたが、彼女は家庭内に留まるような性格ではなかった。ひと悶着があり、血液検査まで行ない、地裁で親子関係がないという判決まで受けたが、張貞伊側は「金将軍と関係があったのは事実」と譲らなかった。親子関係を否定する判決が出たのは、金載圭が権力者だったからだともいう。何より、この息子は金載圭の面差しを引き継いでいたようだ。

 金載圭は「実の子ではなくても育ててやらない理由はない」と言って、中京チュンギョン学院を建てた西氷庫洞ソビンゴドンに新たに別宅を建てて、そこに内縁の妻子を住まわせた。
 表向きは実の子ではないと否定していても、金載圭はこの息子を慈しんだ。幼子を膝に乗せた”父親”の姿がアルバムに残されていることが動かぬ証だった。

 しかし、張貞伊が男児を産んでしまったことで関係は複雑にならざるを得なかった。金載圭と妻・金英煕キムヨンヒの間には一人娘の壽英スヨンがいるのみだった。当時の韓国では、女が親の姓を子孫に引き継ぐことはできなかったのだ。

 金英煕は壽英を妊娠した時につわりが酷く、その間は満足に食事もできないほどだった。二人目の子の出産は断念し堕胎手術を受けたが、それ以来、不妊となってしまった。
 長男の金載圭に跡継ぎとなる男子はいなかった。そこで、弟・金恒圭キムハンギュの長男を金載圭の長男として族譜チョクポ2中国や朝鮮半島に伝わる家系図を記した文書に記載していたのだが、金載圭の血を引く息子がいるのなら、その子を養子という形にしてはどうかという話が上がった。しかし金載圭は「(実の子ではないという)俺の言うことを信じないのか」と言って拒否した。

 10.26事件後、張貞伊は姦通罪で三年の監獄生活を送った。野心の強い彼女は、出所後も詐欺罪で世間を騒がせた。残された息子たちは”逆賊の私生児”として不遇な生活を送り、張貞伊の二人の子のうち、一人は既に亡くなったとも言われている。

忍耐の妻・金英煕

 趙甲濟チョガプチェ・著『韓国を震撼させた十一日間(原題:有故ユゴ!)』には、金載圭と金英煕夫妻の仲は良好だったと記されている。しかしその関係は、妻側の忍耐によって支えられていたようだ。オ・ソンヒョン著『비운의 장군 김재규(悲運の将軍・金載圭)』によれば、金載圭は妻に対して厳格であり、言葉で慰労するようなこともなかったので、金英煕は精神的に疲れていたと金載圭の妹キム・ジェソンが語っている。

 元々、金英煕は口数が少なく、清く慎ましい性格だったため、夫に従い、徹底した質素倹約に努めた。冬でも自分一人しかいない自宅内では暖を取らず、日中は義妹キム・ジェスク3金載圭の二番目の妹の家で過ごし、夫の帰宅時間に合わせて帰ってから自宅の暖房を点けていた。
 衣服は古くなるまで着続け、紙切れ一枚も使い回していた。10.26事件後の家宅捜索では貴金属類などが出て来ず、高官の妻とも思えぬほど私利私欲とは無縁だった。
 夫が着手して放りっぱなしになっていた慈善事業の後始末をさせられることもあった。
 義父・金炯哲キムヒョンチョルの死後は、寡婦となった義母・權有今クォンユグムに尽くした。

 金英煕は10.26事件後に連行され、西氷庫分室で拷問を受けた。釈放された後は酷く心身を病みながらも、金載圭の遺言に従い、夫の部下の子供たちへの援助を続けた。

最後の軍人生活

3軍団長

 1971年9月、金載圭は陸軍保安司令官から第3軍団長に任命され、江原道カンウォンド麟蹄郡インジェグンに異動となった。首都ソウルや青瓦臺とは物理的距離があり、事実上の“流配”であった。そして、これが彼の最後の軍人生活でもあった。

維新体制に批判的?

 1972年10月17日、非常戒厳令が宣布され、維新憲法が成立した。別名「十月維新」である。これは朴正煕大統領の権力を更に強力なものにするためであった。

 金載圭は処刑前日に弟・金恒圭に面会した際、維新憲法を読んだ時の出来事を次のように語った。

 読むほどに痛憤が込み上げてきた。「汚い奴らめが、これが何で憲法なんだ。独裁じゃないか!」と大声を出し、本を投げつけたので、寝ていた妻が驚いて起き上がるほどだった。

 またこの頃、朴正煕の部隊訪問時を狙って、大統領軟禁計画を立てていたともいう。大統領が外に出られないように、鉄条網を内側に向けて設置していたというのだ。

 金載圭は表向き批判的な態度は見せていなかったようだが、幾人かは彼が維新体制に批判的だったと述べている。

漢詩『丈夫恨』

 ”流配”に等しかった3軍団長時代の金載圭には比較的時間のゆとりがあった。彼は退勤後、読書や映画鑑賞を楽しんだ。”中毒”と言われるほど、日本の侍映画には嵌り込んでいたようだ。

 1973年2月、金載圭は『丈夫恨チャンブハン』という漢詩を詠んでいる。

丈夫恨    
眼下峻嶺覆白雪
千古神聖誰敢侵
南北境界何處在
國土統一不成恨

 軍人時代に南北朝鮮半島の統一が実現しなかったことに対する遺憾の意を表した詩である。この詩は後任の軍団長が法堂前の礎石に刻んだという。

 金載圭が10.26事件後、姜信玉カンシンオク弁護士のノートに直接書き記したこの漢詩は、のちに公表されて世に知られることとなった。

©비운의 장군 김재규

軍人から政治家へ

維政会議員

 金載圭は四ツ星4大将。☆☆☆☆の階級章から。への昇進を残したまま、中将として予備役に編入され、25年の軍人生活に終止符を打った。それから彼が転身した先は、何と自身が否定した維新体制の徒――維政会議員だった。これも朴正煕大統領からの勧誘によるものだったようだ。

 彼は短い議員生活を、これといった所信もないまま過ごした。

中央情報部次長

 1973年末、金載圭は中央情報部次長に就任したが、この人事も彼にとっては不満でしかなかった。この時の中央情報部長は申稙秀シンジクス5法学のエキスパートで、法務部長官時代に維新体制成立に関わった。だった。金載圭が陸軍士官学校同期である朴正煕第5師団長の傍らで勤務していた時、申稙秀は法務将校として勤務していた。軍の後輩である申稙秀部長の下で働くのは金載圭にとっては屈辱でしかなかった。
 金載圭は次官級会議の主宰を務めながら、「俺がなんでこんなことを担当しなければならないんだ。俺をこんな扱いにしていいのか」と側近に不満を漏らしていた。

 1974年4月、民青学連事件6共産主義政権を推進して国家転覆を狙ったという罪で180人余りが逮捕拘束された事件。李哲イチョル7のちの国会議員、韓国鉄道公社社長。呂正男ヨジョンナム8逮捕拘束された後に死刑判決を受け、1975年に刑執行。柳寅泰ユインテ9のちの国会議員を追う最中、普門洞ポムンドン派出所のオム所長が中央情報部の捜査チームによって治安局に通告され、解任された上に懲戒委員会に掛けられてしまった。李・呂・柳の三人が派出所近くにいたため、職務怠慢と見なされてしまったのである。
 金載圭の運転手を務めていたLは嚴所長と顔見知りだったこともあり、金載圭に「所長に罪は無いんじゃないでしょうか。将軍が何とかしてあげてください」と頼んだ。金載圭次長はその場で治安局長を無線で呼び出して嚴の救済を指示した。命拾いした嚴は惠化洞ヘファドンの派出所長に復帰した。
 運転手Lが金載圭を頼ったのには理由があった。金載圭次長は数日前に不満を漏らしていたからだ。
「まったく困ったものだ。自首さえすれば全てを問わないと言っても聞かないのだから。学生がこんな風では工作員が自首などするものか。大統領も国も信じられない不信の風潮こそ”亡国病”だぞ」
 側近たちは、この頃から金載圭が朴正煕大統領に対してシニカルな反応を示していたと話している。

建設部長官

 1974年9月18日、金載圭は建設部長官に就任した。軍人出身の彼は政治も経済も分からぬ立場であったが、この時期は政治家として、公務員として、充実した生活を送っていた事跡がある。韓国の国家記録院には、建設部長官としての金載圭の写真が多く保管されている。

 オイルショックの影響が甚だしかったこの時期、金載圭は「病が中東で発症したのだから、処方箋も中東で探すべきだ」と言って、中東での建設輸出を積極的に推進した。当時、建設業を営んでいた実弟・金恒圭による勧誘の影響も少なからずあったようだ。
 いずれにしても、74年には9千万ドルだった建設輸出額が、金載圭が建設部長官在任中の75年には8億5千万ドルに激増しており、軍人としては決して高い評価を受けてこなかった金載圭が、この時期には大きな実績を残したようである。

 金載圭長官がサウジアラビアを訪問した際、国王が「正義のために使うように」と言って宝剣を贈呈したという。

 金載圭は10.26以前にも何度か大統領暗殺計画を企図したと陳述している。前述の3軍団長時代の計画のほかに、建設部長官就任時にも拳銃を懐に隠し持ち、在任中にも太極旗の中に拳銃を隠して暗殺を企図。しかし、いずれも大統領の顔を見て心が挫けてしまい、太極旗は燃やしてしまったという。

一人娘の結婚式に参列せず

 金載圭が父・金炯哲を亡くしたのはこの建設部長官時代であった。その葬儀の様子も国家記録院に保管されている。

 金載圭の一人娘・金壽英が結婚したのもこの頃だ。相手は朴正煕大統領の経済参謀だった全信鎔チョンシニョンの三男・全弘健チョンホンゴン10のちの金浦大学理事長

 金大坤キムデゴン・著『10·26과 김재규(10.26と金載圭)』によると、金載圭は娘の結婚式に参席しなかった。妻・金英煕にも、他の親族にも参席を許さなかった。

 金載圭が娘の結婚式に参席しなかった理由についてはハッキリとした記述はなく、利権の介入を許さない潔癖な性格や、壽英が実の娘ではないという憶測が飛び交ったことにまで言及されているが、あるいは父・金炯哲が亡くなった時期と重なることも関係したのかもしれない。
 いずれにしても、彼の潔癖症の発動は娘の結婚式に留まらなかった。金載圭は末妹の結婚式では祝儀の受け取りを拒否させ、末弟・金英圭キムヨンギュの結婚式ではろくに周知もさせなかった。この件に関しては、次弟の金恒圭が兄に対して不満を訴えている。建設業を営む彼の体面を無視して、全てを兄が取り仕切ってしまったからだ。

 結局、留学のために渡米していた金壽英は現地で挙式した。出席した新婦側の親族は仕事で渡航していた叔父の金恒圭のみであった。政府高官の令嬢の式とは思えぬほど侘しいものとなった。

 金壽英は米国在住だったために、10.26事件で取り調べを受けることもなく、暗殺者の娘として韓国内で針の筵に置かれる生活を免れることができた。
 長期間米国に滞在していた金壽英は、2006年頃に韓国に帰国して、夫とともに延禧洞ヨニドンで生活した。

運命の中央情報部長就任

 韓国中央情報部(KCIA)は、その当時、大統領に次ぐ権力を持つ実質的政権ナンバー2と言われた。その絶大な権力ゆえか、時には大統領をも脅かす存在となり、部長はたびたび更迭された。
 駐米韓国大使館参事官だった金相根キムサングンが米国に亡命した事態収拾のために第7代中央情報部長・申稙秀が更迭されると、1976年12月、金載圭が第8代中央情報部長に任命された。

 金載圭が中央情報部長に抜擢された理由は、妻を失った朴正煕が孤独に陥り、親しい友人や自身に妄信的なイエスマンばかりを側近に置くようになったためと言われている。金桂元キムゲウォンや金載圭は、朴正煕にとっては軍人時代からの呑み仲間であった。

金漢祚が見た金載圭

 金載圭が就任早々に努めなければならなかったのはコリアゲート事件の収拾だった。

 金載圭はコリアゲート事件のもう一人のロビイスト・金漢祚キムハンジョ宮井洞クンジョンドンの安家に招いた。この時のやり取りは「金炯旭回顧録と失踪事件/金漢祚に拳銃を向けた金載圭」に記述した。実はこの時、金漢祚は金載圭部長に会った当初から悪印象を抱いていた。彼は自著『코리아게이트(コリアゲート)』で、以下のように記している。

 宮井洞まで到着するや、金部長が玄関まで出迎えに来た。金載圭部長は背も低く、顔も真っ黒な上に、背広の中にベストまで重ね着しているので、酷く野暮ったく見えた。作り笑いを浮かべる姿は印象が悪かった。

 少なくとも金載圭は、出迎えに来た当初は丁寧な態度だったようだが、金載圭に対して悪印象を抱いた金漢祚からぞんざいな態度を取られたために、例によって金載圭は激昂したのだ。

金鍾泌が見た金載圭

 金大中キムデジュン金鍾泌キムジョンピルは、晩年の朴正煕は”嘘の情報”に弄ばれているという実体験をしていた。
 金鍾泌の妻・朴英玉パクヨンオクは朴正煕の姪であった。姻戚でありながら、金鍾泌は朴正煕から酷く嫌われていた。5.16クーデターを計画した主体勢力であり、初代中央情報部長であり、国務総理を務めた金鍾泌は、朴正煕の”大権”にとって常に脅威だった。

 1978年に金鍾泌は三度目の家宅捜索を受けた。金載圭は金鍾泌を「閣下」という敬称で呼びかけた。国務総理を務めた金鍾泌に対する敬意を表したものであるが、「閣下」は大統領に対する敬称でもあり、朴正煕大統領以外にこの敬称を用いることは不穏な空気を含んでいた。

「もし閣下を含めて誰でも変なことを考える者がいれば、この金載圭が許しません」

 更に金載圭は金鍾泌に情報部で朴正煕の終身執権計画を立てていると伝えてきたという。

「李承晩の年齢と比べれば、朴大統領はまだ二十年以上も立派に働ける。朴大統領を補佐する責任が情報部にある。もし、それを邪魔する者がいたら、誰だろうと、この金載圭が黙っていない」

 この話が事実だとすれば、金載圭が朴正煕維新体制に否定的であったという話とは大いに矛盾する。金載圭からこのような発言を直接聞いた金鍾泌からしてみれば、金載圭が語る10.26事件の動機――「民主主義回復のため」は寝耳に水で、仰天する話だろう。

 多くの者が、金載圭は朴正煕に忠誠心を誓っていたことや、個人的に近しい関係であったことを証言しているし、暗殺事件の犯人が金載圭であったことに衝撃を受けている。しかし、その中でも何人かは、金載圭が維新体制に批判的であったことや、大統領に対して不遜な態度を取ったことを目撃してもいるのだ。この相反する金載圭の言動が、彼の動機の解明を難解なものにしていた。


参考文献