迅速に進められた10.26裁判
金載圭らに対する裁判の進行具合は前例にないほど早かった。事件発生から39日ぶりの12月4日に初公判が始まり、12月18日には結審公判が開かれていた。14日間で9回という強行裁判で、厳密に言えば14日中休んだのは裁定申請のための3日と12.12事態による1日と日曜日だけで、それ以外は毎日裁判が開かれた計算になる。結審して僅か2日後には一審判決が下され、歴史的大事件を扱ったものとしては世界的にもあまり例を見ない進行具合だった。
その上、当時事件を取り扱った軍法会議裁判部の態度は、ある意図的な計画を持って裁判を進行させているのではないかという誤解を招くに十分であった。審理の進行中に裁判官たちの後ろ側の扉を通じて外部からメモ用紙が公然と、かつ頻繁に渡されていたのである。そのため、この裁判は“紙切れ裁判”などと揶揄されることもあった。こういった状況は、この裁判の公正性に疑問を抱かせる要因にもなった。
特に金載圭に対する反対尋問やその答弁の時には頻繁にメモが行き来して、いちいち審判部から尋問を制限されたり非公開にされるなど、被告人側に不利な決定が下されていた。
弁護士らはこういった状況に対して、裁判官は憲法と法律、良心に基づき、独立した姿勢で裁判を行うという原則に立ち返らなければならないと裁判部に抗弁した。弁護士らはこの裁判を「典型的な政治裁判であり、筋書き通りに進められた。戒厳司合同捜査本部の捜査結論通りに判決を誘導するための手段に過ぎなかった」と非難した。
金桂元室長の裁判に臨む態度は一貫して物静かで礼儀正しかったという。金載圭は自分主体の名分を前面に展開する堂々とした態度であったが、金桂元室長は法廷で「閣下にきちんとお仕えできなかったことが罪深い。閣下と共に死ねなかった自分を呪っている」と陳述した。
金室長は最終陳述でも強い口調で「閣下の海のように広い恩恵によって栄えあるポストにまで昇りつめたのに、その恩に報いるどころか最期の国立墓地まで参列できなかった不忠は百回謝罪しようが万回謝罪しようが許されるものではない。金載圭がなぜ私を殺さなかったのか怨めしい。いかなる名分があろうと人倫道徳を無視した謀反は再び起こってはならない。今回の事件が終止符を打つきっかけにならなければならない」と話した。
裁判の過程では次のような出来事もあった。ある日、検察官が金室長に対して尋問を行なった時に、金室長を無期懲役とする判決が下されるという消息を聞いた金載圭が「何だって? 金桂元がなぜ無期なんだ」と反論していたと言い、「その台詞だけ取っても金載圭と事前共謀したことは明白ではないか」と追及した。金桂元室長としては、金載圭がそのような発言をしたことの方が信じられなかったが、金載圭に会うこともできないので、受けとめる以外になかった。ところが、金室長を監房まで護送した大尉が彼に耳打ちして真実を話してくれた。金載圭の発言は「何だって? 金桂元が何をやらかして無期懲役という重罪が下されるのか」という意味だったのだ。
実際、金載圭は2審最終陳述にて、「10.26事態は全て私の責任の下で行なわれたものである。どこの誰とも事前謀議など行なっていない。従って全責任は私にある。鄭昇和総長には責任がなく、私が呼び入れただけである。この事件と関連させて鄭昇和を問責してはならない。金桂元秘書室長にも何ら責任がない。金室長と私は個人的には兄弟のような間柄だ。皆さんが仮にそういった場に居合わせたらどのように行動するだろうか。彼に死刑(金桂元は1・2審で死刑判決を受けたが、戒厳司令部管轄官確認過程で無期に減刑された)とは話にもならない」と話していた。
鄭昇和参謀総長の証言も注目に値する。鄭総長は『12.12 鄭昇和は語る』という著書で、金桂元室長に対して「当時、報告を受けた捜査内容通りであれば、金載圭の殺人計画などについて事前に知っていたという具体的証拠が表れなかった。法律的に重刑を課すことは難しいのではないかと考えた」とし、また「金載圭の死刑を免じることは難しいが、金桂元は刑期を短くするか刑執行停止などがふさわしいのではないかと考えた」と話した。
しかし裁判部が、秘書室長という重責にありながら大統領が目の前で殺害されるのに身を賭して護れなかったということで感情的な判決を下すとしたら、おそらく無期懲役まで行くかもしれないという懸念もあった。
金室長に対する関係当局の監視は獄中でも続いたという。大領1大佐に相当する階級級であった陸軍矯導所2刑務所所長は、ある時までは囚人であっても自分に対しては礼を正していたが、ある日突然囚人番号で呼ばれて粗雑な扱いを受けるようになった。そのようなことが数日間続いて呆気に取られていたが、護送官が耳打ちするには、所長が上層部からきつく言われていて、刑務所を担当している保安司令部要員がなぜ囚人に対して礼儀を正すのか、と叱責されたという。
弁護士らに対して不満はありませんでしたか?
私の弁護士は金載圭を弁護した人たち(主として在野の人権派弁護士21人が大挙して参加)と違って、個人的に選任した人(2人)です。彼らは私のために最善を尽くしてくださったと思っています。
調査の過程で過酷な行為はありませんでしたか?
肉体的な拷問であるとか、そういったことはありませんでした。ただ、眠らせてくれなかったのは苦痛でした。
金載圭と金桂元の財産の没収を建議した全斗煥
睡眠を妨げるのも過酷な行為の一種ではないですか。
そこが抜け目ないところなんです。
深夜1時2時まで取り調べが続いて、私が疲労困憊すると「疲れているなら一眠りしろ」と言われる。それで私がベッドに横たわっていると、眠りつくころになって別の捜査官が入って来て揺さ振って目を覚まさせて、また調査を始めるという。そんなやり方を2~3回繰り返されれば、寝かせるつもりがないのだと分かってきます。
そんなことが幾度となく続くと、何もかもがどうでも良くなって「君たちで好きなようにやれよ」という言葉が自ずと出てきますよ。
軍事法廷の雰囲気は如何でしたか?
基本的に私は孤立無援の状況でした。裁判官はもちろん、誰も私の味方はいませんでした。
共に裁判を受ける境遇にいた被告人たちまでも私を敵対視していました。被告人たちがみな金載圭の部下だったからでしょうかね。彼らはお互いに目礼し合っていましたが、私に対しては顔を背けていました。私にとっても彼らと顔を合わせるのは負担でした。
金載圭と彼の部下は自らの犯行に対して共犯意識で結ばれていた。しかし金室長は犯行を否認する立場にあったため、彼らからは離反者か卑怯者のように見なされた。
金桂元室長は、10月30日に連行されて以来16日ぶりの11月13日に軍検察によって送検され、それから一週間後の12月20日には陸軍本部普通軍法会議で内乱目的殺人罪と内乱重要任務従事罪で死刑判決を受けた。
当時の状況は、10.26後の12.12事態によって、政権の行く末について誰も保証できない権力の空白期であった。年が明けて1月20日に内乱目的殺人罪を単純殺人罪に変えて起訴されるが、同28日、高等軍法会議でも1審同様に死刑判決が下された。控訴審宣告公判は28日午後2時に開かれた。控訴審が終わるや軍法会議管轄だった李熺性陸軍参謀総長は量刑を確認すると、金桂元の死刑を無期に減刑し、残る被告人に対しては判決結果をそのまま維持した。
無期懲役に減刑される直前に全財産を献納したと聞きましたが。
高等軍法会議判決を迎える前日だったと思います。中情要員達が安養矯導所を訪ねて来て、私に財産目録を差し出したんです。挙句、国家に献納すれば情状酌量の余地があり、死刑を免じることができないわけでもないと言いました。
それで家内と息子が判を押した同意書を渡したんです。私の命を救うために家族が進んで行なったのだと言いました。判をつかないわけにはいかないでしょう。それが自主的に献納した経緯です。
没収された財産は多かったんですか?
実際、今の時価に正せば数百億ウォンくらいになるかもしれません。当時の私にはまあまあの財産がありましたから。
元々、私の家は慶尚北道豊基では何代か続いた中流農家でした。父は私が参謀総長をするころになっても、否応なしに田舎から米を送ってくれました。監獄行きになる前まで過ごしていた家に父も住んでいました。
貯まったお金もあったし、あちこちに財産はありました。しかしそれを隈なく調査してほとんど巻き上げたのです。住宅2軒を除いて、現金はもちろん、証書や婚姻道具まで奪われました。
全斗煥保安司令官が鄭昇和総長に報告した内容によると、金桂元室長の当時の財産は約75億ウォン相当であった。保安司が10.26関連者たちの財産について全て調査した結果、金載圭の財産が25億ウォン相当だったのに比して金桂元室長の財産が多過ぎるため、全斗煥司令官は不正蓄財として完全没収するように建議した。
金室長は93年に、没収された財産を取り戻すため、国を相手に財産取り戻し請求訴訟を起こしたが大法院で敗訴してしまった。当時の大法院民事3部は「財産献納過程で強迫によって奪われたという気持ちがあったとしても、贈与としての意思を本人たちが示した以上、効力はある」とし、原告側の請求を棄却した。
金室長は最近、息子が経営する江南のビル管理会社に通勤している。このビルを建てた土地は親戚名義で買ったものだったため、当時奪われずに済んだのが今日の再起の踏み台になった。江南区駅三洞の十字路の要地にあった600~700坪の土地を媒介に建設会社との合弁でオフィスビルを建てて分譲し、1階だけを所有している。息子の会社はこの1階を管理するために作った小さな不動産管理会社である。
大法院の判決でも金室長に対する無期懲役の量刑はそのまま維持された。しかし82年5月29日・釈迦生誕日3旧暦4月8日に刑執行停止で無期から10年に減刑。更に、6.294民主化宣言後の88年2月27日に特別赦免および復権となり、残りの刑期が免除され、失った公民権も回復した。
専属副官、参謀長達も連絡を断つ
判決についてどのように考えていますか?
全員合議部最高判事中6人が少数意見を出した判決です。当時の恐怖政治体制下でそのように多くの最高判事が少数意見を出したとするなら当時の公正性を察することができるでしょう。歴史の正しい記述のためにも当時の判決は再検討されるべきだと考えています。
それからはどのように生活していましたか?
その事件のせいで、到底顔を上げて生きられないようにされてしまいました。
軍の外界秩序も滅茶苦茶にされて放置されました。それは国家的にとても深刻な問題です。
その間、御家族が経験した苦しみも大きいようですね。
私より家族の方が心身ともに苦労が多かったのです。
暫く家の中に常駐して出入りする人間を監視されていました。写真まで撮られて……それで一体誰が心おきなく出入りできるでしょうか?
新軍部による家族に対する弾圧も露骨に行なわれたと金室長は語る。建設会社役員だった末の息子は当局の圧力で辞表を提出させられた。外務部職員だった次男も”自意半他意半5自分の意志でもあり、組織あるいは上の者からの命でもあるという趣旨であるが、どちらかと言えば、外圧によることを多く含んだ言葉。金鍾泌が発したのが語源とされる。”で辞めた。それから息子たちは就職出来なかったと徐鳳仙夫人は語る。
どこの履歴書を出せるというのですか。金桂元の息子ということが明るみになればやっていくこともできませんでした。身元照会したらすぐバレるのだから。
長男はその時、家を出て生活しましたが、嫁がピアノ講師をして生計を立てていました。
最も苦しかったことは何ですか?
さまざまな人々から無視されたことです。監獄を出てからもあらゆる人たちと接触を断って過ごしてきました。親しい友人数名以外とは世間から程遠く生活しました。
今でも胸が痛いのは、数十年、軍の生活を共に過ごした同僚や部下たちが連絡を断っていることです。特に近い間柄だった専属副官や参謀長らが今でも知らぬ顔をしているのを見ると、これが世間というものかと感じています。
金室長は新軍部についてよく語った。特に軍が秩序を掻き乱したことに対して怒りを隠さなかった。延々と続いてきた先輩後輩の伝統を新軍部の下克上によって全て切り捨てたというのである。こうなってしまったら、あらゆる有事に上官の命令に従えるものかと反問する。
金室長の家は敬虔なキリスト教徒である。彼とその息子を含み、四代に渡って教会の長老を受け持っている。彼は仁寺洞にある勝洞教会に60年ものあいだ通っている。
彼は胸の痛む記憶として、服役中に母親が亡くなったことを挙げる。終生、息子のために明け方に祈祷をしたという母は、彼が出獄する半年前に亡くなったのである。亡くなる2ヶ月前、面会に来た時は、瞳孔が異様な感じに見えていた。既に死を予感するように、「お前の健康のために神様にお祈りする」と話していた。母親は、息子が宮井洞の事件現場で死ななかっただけでも常に神に感謝していたという。
原文
- 『시사월간 WIN』월간중앙 通巻42号 1998年11月号