朴槿恵大統領が友人である崔順実に国家機密を漏らしていたことが発覚して弾劾・罷免に追い込まれた「崔順実ゲート事件」は、日本国内でも大きく報道され、さかのぼって1979年に起こった朴正煕大統領暗殺事件や金載圭KCIA部長の顔写真や発言までもがワイドショーなどで取り上げられる事態となった。
韓国内では、まるで朴槿恵大統領から裏切られたと言わんばかりの騒動であったが、決して寝耳に水という話ではない。朴槿恵と崔順実の父である崔太敏との関係は、既に1990年代の韓国内のメディアで報道されていたのである。
金載圭率いる中央情報部が崔太敏の数々の不正や大統領令嬢・朴槿恵との関係を調査したために、朴槿恵の怒りを買い、朴正煕の不快感を引き起こしてしまい、逆に金載圭部長が責められる羽目になったことは10.26事件の要因の一つと言われている。
韓国のラスプーチン・崔太敏
崔太敏は新興宗教の教祖である。1918年、北朝鮮黄海北道で出生した。原名は崔道源と言ったが、多くの変名を持ち、法的に崔太敏と改名した。
日本統治時代は警察官であった。仏教→カトリック→プロテスタントへと改宗し、「永世教勅使館」という看板を掲げて新興宗教の教祖となった。祈祷師であり、催眠術のようなことも行なっていたという。
1975年に「大韓救国宣教団」という宗教団体を設立。この団体は76年に「救国奉仕団」、78年に「セマウム1韓国語で「新しい心」という意味奉仕団」に改名している。
再婚を繰り返し、6人の妻との間に9人の子がおり、崔太敏にとって崔順実は五女に当たる。
朴槿恵と崔太敏の出会いの謎
朴槿恵と崔太敏の出会いは、諸説ある。
まずは、陸英修大統領夫人が不慮の死を遂げたことに端を発するという説である。
1974年8月15日、光復節記念式典において、在日韓国人・文世光が朴正煕大統領を狙撃し、警護室職員との間で撃ち合いとなり、陸英修と、合唱団員として参列していた女子高生が死亡した。
陸英修の死は、夫・朴正煕と子女たちに暗い影を落とした。母親の死後、ファーストレディの代わりを務めていた長女2朴正煕は最初の妻・金浩南(キム・ホナム)との間に一人娘の朴在玉(パク・チェオク)がおり、朴正煕にとって、槿恵は次女に当たる。ここでは陸英修夫人との間の意味で長女とする。尚、金浩南の漢字には「金好南」という表記揺れがある。・朴槿恵に近づいた老人が崔太敏であった。
第4代中央情報部長・金炯旭によると、陸英修女史死後、失意の朴槿恵宛てに崔太敏が手紙を送ったことで交流が始まったという。
崔は「陸英修女史が私の夢に現れ、『いずれ韓国、そしてアジアの指導者になるであろう娘を助けなさい』というお告げがあった」と話し、陸英修の声や表情までも再現することで朴槿恵を信じ込ませたというのである。
十五年もの間、崔太敏と交流があった礼葬綜合総会総会長のチョン・ギヨン牧師は、国民日報のインタビューで、以下のように語った。
「崔氏に直接訊いた。『朴槿恵と私は精神的な夫婦であり、肉体的な夫婦ではない』と話していたことがある」
「崔太敏が朴槿恵嬢と青瓦臺で会った時、陸英修女史の声や表情で憑依し、それに驚いて朴槿恵が失神すると、『私に従えば良い方向に導く』と告げられたのだと」
そして、チョン牧師は「崔太敏は牧師ではない。呪術師であり、祈祷師だ」と酷評した。
田麗玉3反日的観点で著された『悲しい日本人(原題:일본은 없다)』の著者。この本は2007年に盗作疑惑の報道がなされて裁判沙汰になり、2012年に盗作であるという判決を受けている。・元ハンナラ党議員も同様に「朴槿恵代表が『夢に母が現れて、困難なことがあれば崔太敏牧師に相談しなさいと告げられた』と話していた」と回顧した。
何より朴槿恵自身が、崔太敏とは母親の死後に出会ったと語っている。
しかし、朴槿令4朴正煕と陸英修の間の次女で、朴槿恵の妹。原名は朴槿映(パク・クニョン/박근영)であったが、月刊朝鮮2010年8月号のインタビューによると、1993年に書永(ソヨン/서영)に改名し、更に2004年に槿令(クルリョン/근령)に改名している。なお、근영は槿瑛、근령は槿姈のような表記揺れがある。と、夫である申東旭は、CBSラジオ『김현정의 뉴스쇼(キム・ヒョンジョンのニュースショー)』のインタビューで、「崔太敏は陸英修女史が亡くなる以前から朴槿恵に接近しており、それについて陸女史が懸念していた」という異なる証言をしている。
一方で、SBSドキュメンタリー番組『그것이 알고 싶다(それが知りたい)』は、取材によって、崔太敏の催眠術に興味を持った陸英修女史が彼を青瓦臺に呼び寄せたという証拠を示している。
いずれにせよ崔太敏は、銃撃によって母を失い、悲しみのどん底にいた朴槿恵の心の隙間に巧妙に入り込むことに成功したと言える。
大統領一家の分断
崔太敏は「救国女性奉仕団(後のセマウム奉仕団)」という組織を起ち上げ、朴槿恵を担ぎ上げては人々を信じ込ませた。そして、多くの女性を強姦し、利権に介入し、詐欺を働いては不正に巨額のカネを集めていた。
カルト教団の手口として知られているのは、信者を家族から離反させることであるが、崔太敏と朴槿恵の関係も例外では無かった。
陸英修が設立した育英財団や子供会館をめぐって、朴槿恵と朴槿令姉妹が対立し、槿恵は理事長職を退いた。槿令は「崔氏のせいで姉の美しいイメージが傷つけられた。私たち家族を引き離した人物」と崔太敏を強く非難した。
金桂元元大統領府秘書室長は『時事月刊WIN(月刊中央)』(1998年)のインタビューで、朴正煕大統領が「崔太敏が槿恵を誘惑して気になっている」「化け物に憑りつかれる」と話していたと明かし、さらに『月刊朝鮮』(2006年)のインタビューでは、金載圭が「車智澈が崔太敏の青瓦臺への出入りを助けていながら、大統領にそのことを報告していなかった」と不満を漏らしていたことを証言した。
朴正熙大統領の親鞫
崔太敏の不正の数々に多くの人々の不満が噴出したが、大統領令嬢の朴槿恵が深く関わっていることで、事態を深刻かつデリケートなものにしていた。調査報告は大統領の親族の調査を行なっていた朴承圭青瓦臺民情首席秘書官の手にも負えず、金載圭中央情報部長へと移った。
京郷新聞の元編集局長・金景來は、「青瓦臺担当記者をしていた伝手で朴正煕大統領に崔太敏の不正について書き記した手紙を送り、驚いた大統領が金載圭中央情報部長に調査を命じた」と証言している。
朴正熙大統領が崔太敏と朴槿恵、金載圭情報部長を呼び、”親鞫5李氏朝鮮時代の用語で、統治者が直接尋問する行為の一つ。日本語読みでは「しんきく」。”を行なう事態にまで及んだ。
大統領が報告書一つ一つの項目に言及すると、崔太敏は淀みなく答えたが、金載圭は言葉に詰まっていたと朴槿恵は話す。しかし、当時の状況を知る人間によれば、真相は表沙汰にもできないほど深刻であり、大統領と令嬢の前で真実を述べることが憚られるほどであったため、金載圭部長は黙っているしかなかったのだという。
結局、親族の利権介入には厳格であった朴正煕大統領も実の娘を処断することはできず、崔太敏を処罰するどころか、その場で彼を救国奉仕団の名誉総裁に任命してしまい、金載圭は鬱憤を積もらせることになってしまった。
朴槿恵が金載圭情報部長を逆恨み
金載圭情報部長は「崔のような者6敬称も肩書もつけずに姓のみ呼び捨てることは、相当な侮蔑を表していた。は百害あって一利無しなのだから、交通事故にでも遭って死ぬべきじゃないか」と怒りを露わにした。
車智澈警護室長はこの問題については見て見ぬふりをしていたが、愚直な金載圭は真正面から問題にして、朴正煕と朴槿恵から不興を買ったのだという。
朴槿恵は崔太敏を強く擁護するとともに、根拠のない推測も交えた上で金載圭を非難している。
「恩人である父に銃を向けた人の報告が純粋だったと言えますか。金部長は不正腐敗が少なくなかったと聞いています。自分のことを隠すために突拍子もない問題を持ち出したのではないですか」
そして、「批判は謀略で政治的意図によるもの」「奉仕団の活動は純粋な熱意によるもの」と信じてやまなかった。
金載圭が崔太敏の不正を報告すると、朴正煕大統領は「情報部はこのようなことまで調査するのか」と不快感を露わにしたという話がある。
一方で朴承圭は、この調査以来、朴槿恵の態度が自分に対してよそよそしくなったため、大統領が朴秘書官に対して気遣いを見せてくれたと話す。
金景來の証言通り、情報部への調査指示が大統領からのものであれば、大統領の金載圭情報部長に対する不快感や朴承圭秘書官に対する気遣いとの差は腑に落ちないが、調査指示を受けた後に情報部が、朴槿恵に関わる更なる深刻な問題を調べ上げて大統領に報告したとあれば、辻褄が合う。
この調査で朴槿恵は金載圭情報部長を憎悪し、彼を更迭するよう父親にせがんでいたと金桂元元秘書室長は証言する。
また朴承圭元秘書官も、「金載圭は朴大統領に対してとんでもない不忠をしでかしたが」と前置きした上で、「崔太敏の問題については共に苦悩した」と話す。
この事件の詳細を知る者は「一般に知られるよりも深刻な問題」「詳細は絶対に言えない」と口を揃える。
崔太敏の不正については、朴槿令だけでなく、姉妹の弟・朴志晩7朴正煕と陸英修の間の長男。母親の死後、陸軍士官学校に在籍していたが、素行不良で父親を悩ませた。飲酒運転で交通事故を起こし、その後も覚醒剤を使用して何度も逮捕されている。株式会社EGの会長となった。も槿令と連名で訴えており、盧泰愚政権時代にも調査が入っている。
金載圭は10.26事件後、控訴理由補充書内で「崔太敏と令嬢の問題は、大統領を射殺した動機の一つである」と言い切った。
崔太敏は1994年に亡くなったが、彼の遺志は娘の崔順実に引き継がれた。崔太敏を妄信し、崔順実に依存したまま、朴槿恵は大権8韓国では、大統領の座を指す。に就き、身を滅ぼすこととなったのである。
参考資料
- 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山と呼ばれた男たち』講談社 1994年 【】
- 金香清『朴槿恵 心を操られた大統領』文藝春秋 2017年 【】
- 나무위키 namu.wiki/최태민
- 나무위키 namu.wiki/김재규
- 『“최태민, 육 여사 빙의… 朴, 그 모습에 놀라 기절했다”』국민일보 2016年10月30日
- 『최태민 “박근혜와 나는 영적 부부 사이”』월요신문 2016年10月31日
- 『박근령 “육 여사, 생전에 ‘최태민 조하라’ 경고”』Daum노컷뉴스 2016年
- 『CBS 김현정의 뉴스쇼』CBS 2016年
- 『그것이 알고싶다(1054回)』SBS 2016年11月26日
- 시사월간WIN(월간중앙 通巻42号)1998年11月号
- 『[집중 인터뷰] 朴正熙의 최후를 지켜본 유일한 생존자 金桂元 前 청와대 비서실장, 18년 만에 다시 입 열다』월간조선 2006年2月号