1998年、10.26事件の現場目撃者であり生存者でもあった金桂元元青瓦臺秘書室長のインタビューが『時事月刊WIN(月刊中央)11968年に創刊された中央日報社の時事月刊誌。1995年から99年まで誌名を『WIN』に変更していた。』11月号に掲載された。
金桂元は1923年に、慶尚北道榮州で出生した。彼は延世大学の前身である延禧専門学校商学科と軍事英語学校を卒業した。
日本陸軍の見習い士官として服務。終戦後はソウル市に戻り、1946年に韓国軍砲兵少尉として任官した。60年に陸軍大学総長、66年から韓国陸軍参謀総長を歴任している。陸軍大学総長時代に副総長を務めていたのが金載圭だった。
予備役に編入されたのち、第5代韓国中央情報部長に就任する。”南山のイノシシ”金炯旭の後任であったが、常識人で温厚な金桂元は金炯旭のような権勢を振るうことはなかった。
金桂元は台湾大使を務めた後に青瓦臺秘書室長に就任した。軍人出身の彼は政治も経済も分からない人間であったが、朴正煕大統領から「ただ、そばにいて話し相手をしてくれれば良い」という理由で抜擢された。それは金載圭の伝手でもあった。
金桂元と10.26事件の主犯・金載圭は、軍の先輩後輩であり、個人的にも兄弟のように親しく付き合う間柄だった。
このインタビューにも出てくるように、金桂元は交通事故で重傷を負った金載圭を救出した命の恩人だ。その金載圭によって、金桂元は人生を暗転させられた。いわば恩を仇で返された形である。それでも金桂元は、人間的な繋がりの深かった金載圭に対して恨みつらみを吐き出すことはなく、複雑な情を見せている。
朴正煕大統領や金載圭とは、公人としての関係以上に個人的な人情によって繋がっていた金桂元。彼ならではの視点で記憶された10.26事件が語られる。
取材はチョン・ジェリョン(정재령)記者。
宮井洞事件唯一の生存者・金桂元が19年ぶりに語る
「私は新軍部が権力を握る野望の犠牲者第一号」
「10.26(朴正熙大統領射殺事件)」は、現代韓国史上最もドラマティックな事件である。その10.26事件渦中の人物で唯一の生き残りである金桂元・元大統領府秘書室長が、事件発生から19年ぶりに初めて月刊中央WINとのインタビューで口を開いた。金氏は、10.26は金載圭が犯した単純殺人事件であるにも関わらず、新軍部2全斗煥を中心とする軍事政権が政権野望のために自分を共謀者に仕立て上げた上に、12.12事態31979年12月12日に起きた粛軍クーデターを巻き起こして鄭昇和陸軍参謀総長までも関連させて事件を拡大して操ったのだと主張する。
四度に渡って12時間以上行なわれた金桂元元秘書室長の証言を元に10.26事件を再構成し、真実を追跡してみることにした。
10.26が韓国現代史上最も劇的な事件であるのは、事件の構成と展開がどんなドラマよりもショッキングである上、絶対権力者である大統領を側近中の側近である中央情報部長が殺害するという登場人物設定が興味を注ぐからだ。事件発生現場の宮井洞安家の謎めいた雰囲気も欠かせない劇的要素の一つである。
更にこの事件は、12.12粛軍クーデターから5.17光州事件へと繋がり、歴史の流れを転換させる決定的な発端となった。事件発生から19年経った今になっても解けない背後関係についての謎など、いつまでも多くの韓国人の脳裏から消えないミステリーなのである。
宮井洞の晩餐会の中心人物だった4人のうち3人は既に世を去った。金載圭中央情報部長の銃弾によって朴正熙大統領と車智澈警護室長がその場で命を失った。金載圭は内乱目的殺人容疑で起訴され、大法院で死刑が確定し、1980年5月24日にソウル拘置所で絞首刑に処せられている。
当時の中心人物のうち、金桂元元秘書室長だけが生存している4金桂元は、2016年12月3日に93歳で死去した。彼は金載圭との共謀容疑で、内乱目的殺人及び内乱重要任務従事罪などにより軍法会議1・2審で死刑宣告を受けたが、管轄官確認過程で無期懲役に減刑されたのちに大法院で刑が確定した。82年に刑執行停止で釈放され、88年2月に特別赦免・復権で刑執行が免除されて公民権を回復した。
10.26は事件と関わった全ての人間の”個人史”にとてつもない変化をもたらした。事件を起こした主犯・金載圭と彼の部下たちはみな極刑に処せられた。一方で戒厳司令部合同捜査本部長だった全斗煥保安司令官は、この事件を収拾する過程で権力を掌握した。彼を頂点とする新軍部勢力は十数年もの間、権力の中枢を享受することになる。
また10.26は12.12事態という災いの元凶となる。鄭昇和陸軍参謀総長(当時)は事件の当日、金載圭の招待で宮井洞の事件現場近くにいたという理由で関連容疑を掛けられ、合同捜査本部によって逮捕される。合同捜査本部を中心とする新軍部勢力が既存の軍事勢力の象徴だった鄭総長を逮捕するという展開がまさに12.12事態だった。鄭総長はその後、二等兵にまで降格され、内乱幇助罪で15年の懲役刑の宣告を受ける。しかし、12.12事態は文民政府により再び断罪され、事実上”クーデター事件”として結論付けられたのだった。
興味深いのは、宮井洞の現場にいた人々が、その時の体験とその後の人生を記録した本を出したという共通点である。
まず鄭総長が『12.12事件、鄭昇和は語る』<カチ刊>という名の本を出した。この本は87年発刊当時、12.12が新軍部により事前に計画されたクーデターであったという点を最初に主張したことで大変関心を集めた。
金載圭の犯行に絡む秘密
宮井洞の”大行事(酌婦がいる大統領の酒席を意味する隠語)”に招待された歌手・沈守峰と当時女子大生だった申才順らもこの事件で人生が転換する体験をする。彼女たちも、自身の宮井洞現場目撃談とその後の経験を収めた本を出版して関心を集めた。
しかし、10.26によって誰よりも急転直下の辛い人生経験をした金桂元元秘書室長だけが今まで沈黙を守ってきた。彼は82年に刑執行停止で釈放された後もずっと世俗から離れて生活し、世間に姿を晒すことを拒んでいた。
彼は「お仕えする大統領のお命を守れなかった人間が何を喋ることができるのか」と言って取材を固辞した。積極的に自分の無罪や潔白を明らかにしようと努めることすらしなかった。
彼の知人を通じて金室長に初めて会った日、彼は「取材とは、何の取材ですか?」「茶でも一杯飲んで行きなさい」と言った。彼は自分が話すことさえ受け留められない様子だった。
そんな彼が、二回目に会ってようやく口を開き始めた。気持ちを入れ替えたのは恐らく歳のせいであろう。1923年生まれである彼は既に76歳を越えている。記憶力も一日経つごとに薄れていくのを自ら感じているためではないかというのが記者の判断である。人は誰でも自分を曝け出したいと考えることがある。言うまでもなくそれは、自分の気持ちを正しく理解してくれる人の前であることが前提だ。
彼は最近ノートパソコンのタイピング練習を始めている。創軍に絡む昔の写真を見て過去を思い出すたびに、それを記録しようと試みているのだ。陸軍参謀総長、中央情報部長、大統領府秘書室長を歴任した彼の経歴をみる時、自身だけが知る秘話を記録して残せば、それは大きな歴史となる筈だ。彼は自分が残さねば永遠に埋没してしまうだろうという哀しみ故にこの作業を始めたのだと言う。
それでも彼は、主張によって自身のイメージを変えられることには期待していないと語る。自身に対する強い否認が世間に定着しているためだ。彼は韓国内の言論に対して極度に不信感を抱いていた。出獄後、自分についての新聞記事を見たが、検察官の尋問内容がそのまま載っていて、自身の法廷での主張は一行たりとも反映されていなかったという。それ以来、新聞やテレビなどの自分に関する報道は一切見なかったと話す。
インタビューはソウル市江南区駅三洞にある彼の事務室と、狎鴎亭洞にある現代アパートの自宅などで、8~9月末まで4回に渡って進められた。
事件が発生してから19年の歳月が過ぎました。現時点で10.26事件を定義するとしたら、どのように言えますか?
一言でいうと金載圭による単純殺人事件です。
それを新軍部が政権を奪う目的で過大解釈して私を共犯者にして追い詰め、鄭昇和総長まで巻き添えにして事件を操ってしまった。
権力を握るためにこの事件を利用したことが12.12事態につながる10.26事件の本質です。
金載圭に対する合同捜査本部の捜査結果と判決は、政権掌握を目的とした金載圭が事前に計画して部下を動員した上で行なった犯行であると結論を下しました。そして、金室長は金載圭と事前謀議したとされています。本当に金載圭の犯行を事前に知らなかったんですか?
知る訳がありません。
犯行自体が偶発的に起きたものなのに事前謀議などできますか。
今まで進められた捜査記録と裁判過程を見ると、金載圭は犯行を事前に準備したとされています。それでも金載圭の犯行を偶発的だと思いますか?
そうです。私は確信している。
金載圭と私の関係、そして金載圭と朴大統領の関係、私と朴大統領の関係を知っていれば、私がそう確信する理由が理解できるはずです。
金載圭と私は兄弟以上の関係でした。金載圭が事前に犯行を計画したとしたら間違いなく私に相談したはずだと信じている。人間的にそれだけ近い仲だったのです。
金桂元室長と金載圭の縁は、金室長が鎭海陸軍大学総長だった時代まで遡る。その時金載圭は陸軍大学副総長だった。総長と副総長の官舎が建物の上下階にあった。夫人同士もよく知っていて、子供たちも親しく、あたかも一つの家族のように交流して過ごしていたという。金載圭の娘と金桂元の娘は同い歳だったと金室長は記憶している。
兄弟の縁を結ぶようになったのは、その頃、金桂元が金載圭の命を助けたことに端を発する。馬山で海軍との合同訓練を終えて会食を共にしたのだが、酒に酔った金載圭が運転兵を押しのけて自らジープを運転し絶壁から転落する事故を起こしたのだ。この時、先に走っていた金桂元が車で引き返して崖を下って行き、出血して気を失っている金載圭を担いで病院に搬送して命を救ったのである。
この事故は民間の女性が死亡し、数名が負傷する大きなものだった。それ以来、金載圭は金室長を命の恩人として丁重に、兄のように迎えたのだという。
原文
- 『시사월간 WIN』월간중앙 通巻42号 1998年11月号
参考文献
- 나무위키 namu.wiki/김계원