車智澈外伝 遺族たちの波乱な末路

 大統領を護れなかった傲慢不遜な警護室長という評価がなされた車智澈の身内は、韓国内で安寧な生活を送れなかったことは共通しているが、母親と妻は全く対照的な生活を送った。

 ユン一家――車智澈の妻と、彼女の両親と兄は、米国で5千万ドル相当の不動産を所有していたと言われている。

渡米した妻の家族が莫大な不動産を購入

 車智澈の妻・尹寶英ユンボヨンと、まだ幼かった三人の娘(保慶ポギョン美慶ミギョン厚慶フギョン)は当時首都警備司令官だった崔世昌チェセチャン将軍の配慮で米国に渡った1崔世昌は車智澈や全斗煥と共に、米国でレインジャー訓練を受けた間柄だった。1981年12月には米ニューヨーク市で市民権を得ていた。
 その頃、尹寶英は実の両親であるユン・ウォンジュンとチョン・スンニョとの共同名義で、既に渡米して1976年には市民権を得ていた実兄から住宅を買い取った。更に1983年には母親との共同名義で新築住宅を購入した。

 妹の移住後、兄も次々と大規模な不動産を購入した。両親の共同名義だけで3件、両親と兄の名義で8件もの不動産を購入していた。兄はAMラジオ放送局も二つも買い取っている。

 尹寶英の兄であるユン・セウン2米国名はリチャード・ユン(Dr. Richard Sei Oung Yoon)は泌尿器科医である。
 フェイス神学校(Faith Theological Seminary)に通い、1988年に神学修士、91年に神学博士の学位を受け、1994年には学長まで務めたという。
 ニューヨーク韓人第一教会(First Korean Church Of New York)の代表も務め、1996年にはペンシルベニア州にあるリンウッド・ホール(Lynnewood Hall)を購入した。この建物の敷地はホワイトハウスの2倍ほどあり、建坪も20%大きかった。
 ユン博士はチェルトナム郡区(Cheltenham Township)に、この建物を宗教施設として免税の対象となるよう求めたが却下されたため、2005年に訴訟を起こした。最高裁に上告までしたが棄却され、神学校としての運営を断念し、結局この建物は売却された。

車智澈夫人、14億ウォンの詐欺被害に遭う

 1987年、尹寶英が14億ウォン相当の詐欺被害に遭っていたことが判明した。

 某相互信用金庫の大株主であるキム兄弟が高金利を謳い文句に尹寶英からお金を預かっていたが、返済に応じなかったため、尹寶英が要求すると、今度は「不正蓄財を暴露する」と脅迫してきたという。
 この兄弟は、1980年頃から政府関係者の裏金のみを狙って詐欺を働いていた。

 その当時の14億円を蓄財するには、青瓦臺警護室長の給料だけでは150年も掛かるほど莫大な額であった。長い間、車智澈は私利私欲のための蓄財は行なっていなかったと側近たちによって証言されていたが、夫人の詐欺被害があまりにも巨額であったため、車智澈が不正蓄財を行なっていなかったという証言には疑惑の目が向けられることになった。

 尹寶英は1997年9月に50歳で亡くなり、1983年に購入した住宅は三人の娘3米国名はダイアナ、クリスティーン、ジュディが相続した。

 莫大な遺産を相続したであろう車智澈の娘たちであったが、長女のダイアナこと車保慶チャボギョンは、2014年3月に国家有功者家族としての登録を申請した4国に貢献、あるいは殉職した者が対象となる。法的な認定を受ければ、本人及び、その子孫は年金や生活保護などを受けられる。。しかし、米国籍であることを理由に却下された。

車智澈の異母弟がNYで殺害される

 1994年11月2日午前、車智澈元青瓦臺警護室長の異母弟であるチャ・サンチョル(51歳)が、米国ニューヨーク市ブルックリン区ジャクソン・ストリート5各新聞記事にはアベニュー(애비뉴)と書かれているが、動画で「ストリート(St.)」であることが確認された。なお、「ジャクソン・アベニュー」はブルックリン区ではなく、ブロンクス区に存在する。にある大林テリム建設の地下で、首を切られて殺害されているのを、通報で駆けつけた警察が発見した。

 チャ・サンチョルは五人兄弟の末っ子で、韓国ではレンタカー事業を行なっていたが、1979年の10.26事件後に、妻子を置いたまま単身で渡米し、87年から大林建設という木工所を経営していた。

 ここ数日間、姿が見えないことを不審に思った家主が通報。2日午前に警察が到着し、10坪ほどの地下作業場の床で、両耳付近まで首を切り裂かれた状態で発見された。
 周辺住民の証言と司法解剖の結果から、死亡推定時刻は10月30日午後6時頃。犯人は1階駐車場に侵入し、チャ氏の後頭部を凶器で殴った後に、地下へ運んでから殺害したと見られている。
 警察は、強盗事件あるいは、盗難品が無いことから怨恨による殺人の可能性も視野に入れて捜査していた。

 妻(事件当時47歳)と二人の子(1男1女)はソウル市江南区カンナムグで生活しており、15年もの間、一度も行き来がなかったという。

 チャ・サンチョルの葬儀は11月17日に姉や知人が参列して行なわれ、遺体は21日、飛行機で無言の帰国をした。

 事件のその後については報道が無く、犯人が捕まったかどうかについては分かっていない。

最愛の母、101歳の”恨”生を閉じる

 車智澈が殺害されると、妻子や異母姉たちは世間の批判を浴びて居たたまれなくなり、米国へ移住した。車智澈の母・金大安には、車智澈のほかにも父親が異なる三人の娘がいたが、長女は既に亡くなっていた。独り残された金大安は、暫くソウル市松坡区ソンパグ蚕室洞チャムシルトンのアパートで暮らしていた。

 その頃の生活費は、車智澈と高校時代の同窓だった張致赫チャンチヒョク高合コハプグループ会長が出してくれており、後年は、車智澈の警護室時代の部下たちが青瓦臺警護室に助けを要請して、毎月50万ウォンの介助費が支給されていた。

 このような状況を聞いた永楽ヨンナク教会・韓景職ハンギョンジク牧師の紹介で、金大安は1991年8月に京畿道河南ハナム豊山洞プンサンドンにある「永楽老人福祉センター」に入所した。

 70年代に警護室職員だった人々が時折訪ねて来ては、息子・車智澈の思い出話に浸るのが唯一の楽しみであった。
 娘が1995年頃に初めて訪ねてきたことがあるが、普段は連絡が途絶えていたという。

 この時期から、老衰のために介護が必要となり、亡くなる二年前からは食事も困難な状態にあった。

 1997年9月11日、当時の大統領・金泳三キムヨンサムが、孫命順ソンミョンスン女史6韓国・朝鮮語では国家元首の妻に対する敬称として「女史」を用いる。と共に同施設を慰問のために訪れている。夫妻は入所者の手を取り、一人一人に年齢や容態を尋ねていたが、林鍾洛イムジョンナク院長から、入所者の一人である金大安が故・車智澈元警護室長の母親であることを聞いた。金大統領は「そう言われてみれば、よく似ていらっしゃいますね」と挨拶をした。

 それから翌1998年12月23日、金大安は、最愛の息子を殺害されるという”ハン7外部に対する怨恨だけではなく、心の内に秘めた鬱屈した思いや、無常感、劣等感、悲哀などを含んだ思想的概念。”に満ちた生涯を閉じた。戸籍上では101歳だった8当時は、実際に生まれた生年月日と戸籍に記載されている生年月日の不一致はよくあることであった。

 長寿を全うした金大安であったが、若い頃は病気がちで、教会に通いながら経済的援助を受けていたという。村の居酒屋で水商売をしながら、車氏姓の男性の後妻となり車智澈を産んだが、不遇な扱いを受けていた。

母・金大安(中央)の誕生日を祝う車智澈(左)。右は車智澈の娘。

©中央日報社

 息子の出世により、金大安も裕福な生活を送った時期があった。車智澈は母親のために、自宅にエスカレーターまで設置したという話もある。しかし息子の死後、金大安は小さなアパートで、最低限の家電しかないまま、貧困層の暮らしに落ちぶれていた。
 金大安の知人によると、車智澈が信仰していた教会牧師に財産を騙し取られた上、金大安は、その牧師から経済的援助という名目で、最低限の小遣いだけ渡されていたのだという。

 金大安の終末期に、警護室の元職員が家族を捜したが、嫁の尹寶英は既に亡くなっており、孫娘たちからも返信がなかった。実の娘のうち、三女は病気のため帰国できず、唯一次女のみが葬儀に参列した。葬儀には、全斗煥元大統領から花輪が贈られていた。

 12月26日、金大安は永楽教会公園墓地内で、息子・車智澈の傍に埋葬された。

車智澈と金大安の墓(外部サイトへ)

参考資料