歴代の韓国中央情報部長のうち、親米派の者は少なくなかったようだ。その代表格が李厚洛である。また、車智澈の前任の青瓦臺警護室長・朴鐘圭も親米派で知られる。金載圭中央情報部長も親米派の一人だった。
金載圭中央情報部長が10.26朴正煕大統領暗殺事件を起こした動機の一つに、米国との関係が挙げられる。
この事件について語る時、頻繁に登場するのが、米国が裏で糸を引いていたとする”米国背後説”である。
これは、金載圭が逮捕後にたびたび米国の話を持ち出していたことに起因する。
彼は取り調べ中に「米国から連絡はないか」と尋ねていたようであるが、そこから「私の背後には米国がいる」と発言したという説にまで発展してしまった。
法廷でも彼は韓米関係について言及していた。
彼は韓国中央情報部長という立場にあって、頻繁に米国の要人と会談していたため、米国の対韓感情に敏感にならざるを得なかった。
それまでも、朴正煕独裁政権下で起きた数々の事件が韓米関係を悪化させていた。
人権弾圧問題に加えて、「コリアゲート事件11976年、韓国中央情報部(KCIA)が、実業家の朴東宣や金漢祚を通じて、米国の政治家に賄賂を贈り、15億ドル規模の軍事援助の承認を得たり、在韓米軍撤収論を抑えるといったロビー活動を行なっていた事が発覚した。この事件の捜査のため、米下院でフレイザー委員会が構成され、聴聞会では元韓国中央情報部長の金炯旭が朴正煕政権の不正を証言していた。」が起こった。金載圭はコリアゲート事件絡みで更迭された申稙秀中央情報部長の後任だった。
かつて韓国中央情報部長を務めた金炯旭は、米国のフレイザー委員会の聴聞で朴正煕政権の不正の数々を証言した。
つい先日も金泳三がワシントン・ポスト紙上で米国の介入を煽るような発言をして朴正煕の神経を逆撫でしたばかりだ。
しかし、最も韓米関係を悪化させた原因はほかにあった。朴正煕大統領が核兵器開発も視野に入れた”自主国防”を目指していたからである。
朴正煕大統領、自主国防を目指して米国と対立
韓国は休戦以降も常に北朝鮮による”南侵”の脅威にさらされていた。
1968年には金新朝らゲリラ部隊による「青瓦臺襲撃未遂事件21968年1月21日、北朝鮮の第124部隊の31名が朴正煕大統領を襲撃する目的で、青瓦臺までわずか300mの鍾路区洗劍亭まで到達した事件。韓国では「1.21事態」と呼ばれている。この事件で侵入したゲリラ31名のうち29名が射殺され、1名が行方不明(損傷が激しく、最後まで身元が判明しなかった遺体が数名あり、北朝鮮に逃げ帰った者がいたという説がある)。唯一投降して逮捕された金新朝だけが生き残り、後に牧師となり、韓国で生活している。この事件で、韓国側も軍人25名、民間人7名が死亡し、52名が負傷するなど、甚大な被害を受けた。」があり、76年には第二次朝鮮戦争の危機と言われた「ポプラ伐採事件31976年8月18日、板門店で起きた事件。北朝鮮側によって植えられていたポプラの木が生育して視界を妨げていたため、国連軍側が北朝鮮に通告した上で伐採を始めた。朝鮮人民軍はポプラは金日成主席が植えたものとして伐採を認めず、中止を要求したが、国連軍が伐採を続けたため、朝鮮人民軍が国連軍のアメリカ人陸軍士官2名を斧で撲殺した。ほか韓国軍の兵士も負傷した。韓国では「板門店斧蛮行事件(판문점 도끼 만행 사건)」と呼ばれている。」が起きていた。
朴正煕大統領の独裁的権力を更に強固なものにした維新体制の発足は、金日成に対抗するためでもあった。
朴正煕大統領は1970年に、武器開発を目的とした「国防科学研究所」を設立している。ここで開発した武器は、自主国防だけではなく、輸出もされたため、米国を刺激した。
1972年には、武器開発委員会が核兵器開発計画を決定した。当時の韓国は核開発能力を十分に持っているとは言えなかったが、フランス・カナダ・ベルギーから核処理施設や重水の処理技術を購入しようとした。
米国は、韓国が核開発を続けるなら「核の傘」から除外すると警告した。
1975年、韓国は核兵器開発を撤回する公式表明を行なったが、実は極秘裏に核兵器開発を続けていたという4韓国の核再処理研究は、1991年に北朝鮮との合意で非核化宣言を行なったことで終止符が打たれた。。
1977年当時、申炯植建設部長官が中東の某国から核爆弾運搬用ミサイルを導入しようとしたが、金載圭中央情報部長の猛反対により実現しなかった。
1978年9月、韓国産誘導ミサイル「白クマ1号」の発射実験が行なわれた。ミサイルは発射から十数分後に、150km余り離れた無人島に落下した。目標物50m範囲内に命中し、実験は成功した。
朴正熙大統領は、自国の防衛も満足にできなければ真の独立国家ではないという考えを持っていた。自主国防は彼の悲願であった。
一方で金載圭は、朴正煕が唱える自主国防に否定的だった。
当時は米国とソビエト連邦の冷戦時代であり、中国も強大な軍事力を持っていた。韓国との国交を持たないソ連と中国が北朝鮮を支持していた。そんな状況下で自主国防を選択し、米国を怒らせることで米軍が撤収してしまい、韓国が孤立するような事態は絶対に避けねばならないと考えていた。
また、在韓米軍が国防を担ってくれることで、韓国は国家予算を自国の経済開発に回せるという利点も持っていたのだ。
カーター大統領の訪韓
1979年6月29日から7月1日にかけて、米国のジミー・カーター(James E. Carter Jr.)大統領が訪韓した。東京で開かれたG7先進国首脳会議の帰路だった。
カーター大統領は既に在韓米軍の撤収を韓国側に通達しており、会談の際にこの問題を持ち出されることを望まなかったが、韓国および極東の安全保障にとって重大な問題であるため、朴大統領は引かなかった。
カーター大統領との会談で、朴正煕大統領は自分一人で思索した所信を45分に渡って一方的に披露した。カーターは心中激怒し、隣りにいたサイラス・ヴァンス(Cyrus Vance)国務長官に「この男が2分以内に黙らなければ、私はここから出ていく」というメモを渡したという。
自論を言い尽くした朴大統領は、翌日の晩餐では一切この件に触れず、韓米双方が友好を強調した。しかし、カーターは人権問題にも言及し、限られた45時間の滞在中に反体制人士に会うなどして帰国した。
在韓米軍の撤収はカーターの選挙公約であったが、ヴァンス国務長官、ブラウン(Harold Brown)国防長官、ブラウン(George S. Brown)統合参謀本部議長、ヴェッシー(John W. Vessey Jr.)駐韓国連軍司令官、グレイスティーン駐韓大使からことごとく反対された。
結局、在韓米軍の撤収は、北朝鮮の脅威が増したという理由で中止となった。
金載圭KCIA部長と駐韓米国大使の密談
金載圭韓国中央情報部長は、米国のウィリアム・グレイスティーン(William H. Gleysteen Jr.)駐韓大使、ロバート・ブルースター(Robert G. Brewster)CIAソウル支部長、ジョン・ウィッカム(John A. Wickham Jr.)駐韓国連軍司令官5ヴェッシーの後任で、1979年10月に就任したばかりであった。にとって政治的な攻略対象だったようだ。
1979年には、韓国が核再処理施設の導入を諦め、核兵器開発が凍結されていたため、韓米関係の危機的状況はいくらか緩和されていたが、引き続いて人権問題やコリアゲート事件などがあり、米国の対韓感情は悪くなりこそすれ、好転することはなかった。
この年、金載圭はグレイスティーン大使やブルースター支部長と頻繁に密談を交わしていたという。
米国側は、人権問題を中心に、朴正煕政権に対する批判を繰り返した。
金載圭が韓国の政治経済についての分析を尋ねると、グレイスティーン大使は経済成長の停滞と、政治の両極化を懸念した。
大使には、穏健派だった金載圭は理解ある人物として受け取られたようだ。
朴正煕死去の第一報を聞いた時、グレイスティーン大使は米国務省に概ね以下のように電文した。
――私は韓国内の様々な要人たちから、「朴大統領が都合の良い参謀の言葉ばかり聞き入れ、誤った決定をしている」という批判を聞かされた。そのため、これは軍事クーデターではないかと考えたが、共謀者の痕跡が無いため、大統領の側近たちが金載圭の指導のもと、朴大統領のみを排除して権力構造を維持したまま無難な後継者を選ぶ計画を立てたのではないかと考えた。金載圭は朴大統領の強硬策が国を危機に陥れると懸念していた一人かもしれない。
グレイスティーン大使と大使館で会った合同参謀戦略企画局長・孫章來は、大使が「起こるべくして起こった」という態度だったという印象を受けた。孫章來は、朴正煕暗殺は米国の政治的作用が影響を与えていると考えていた。
グレイスティーン大使は米国務省に宛てた電文で、以下のように弁明している。
――米国が朴正煕政権を批判することにより、クーデター首謀者にシグナルを送っていたかのように誤解されている。我々はそのような行動を取ってはいない。
朴正煕大統領暗殺は米国が背後から糸を引いていたことで起こったという説は、現在では否定されている。
金載圭自身が、拷問を伴った取り調べでも米国との関係を否定している上に、「米国に対しても保安を維持しなければならない」と話していたという。
参考資料
- 金在洪 著・金淳鎬 訳『極秘 韓国軍 知られざる真実―軍事政権の内幕(下)』光人社 1995年 【】
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 趙甲濟 著・黄民基 皇甫允 訳『国家安全企画部 韓国現代史の影の権力!』JICC出版局 1990年 【】
- 金正濂『韓国経済の発展』サイマル出版会 1991年 【】
- 金潤根『朴正煕軍事政権の誕生――韓国現代史の原点』彩流社 1996年 【】
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山と呼ばれた男たち』講談社 1994年 【】
- 나무위키 namu.wiki/코리아게이트
- 나무위키 namu.wiki/1.21 사태
- 나무위키 namu.wiki/판문점 도끼 만행 사건