金載圭伝(一)恵まれた幼少期

金載圭 ©1976 국가기록원/공보처 홍보국 사진담당관

韓国現代史に名を残した暗殺者

 金載圭キムジェギュ――おそらく彼は、韓国の現代史上最も有名な暗殺者だろう。

 韓国には二人の「アン」という有名な暗殺者がいる。
 一人は安重根アンジュングン。日本の初代総理大臣・伊藤博文いとうひろぶみを射殺した人物として、我が国でもよく知られている。奇しくもこの事件があった1909年10月26日は、朴正煕パクチョンヒが金載圭に暗殺された日からちょうど70年前に当たる。彼は現在でも、抗日の英雄として「安重根記念館」が建てられるほど韓国人から崇拝されている。
 もう一人は安斗煕アンドゥヒ。彼は1949年に、現在でも多くの韓国人に崇拝されている抗日の英雄である「白凡ペクポム1「白凡」は金九の号で、自叙伝『白凡逸志』の著名にも記されており、彼は通常「白凡金九先生」と呼ばれる。」こと金九キムグを射殺した。彼は終身刑から減刑されたのちに出獄したが、たびたび威嚇攻撃を受け、96年には金九を熱狂的に支持する青年によって自宅で殺害されている。

 あまりにも異なる評価を受けた二人の「安」という暗殺者。
 韓国では良かれ悪しかれ暗殺者の名前は人々の記憶に残り、そのまま歴史上の人物として語られている。これは日本にはない傾向だが、おそらく韓国に根付く”ハン2単純な他者への怨恨と言うよりは、心の内に鬱積した悲愴や無常感のような感情。”の思想と関係しているのだろう。それだけ韓国人は自国の歴史に強い関心を持ち、過去に執着する。彼らはずっと”恨”という独特な感情を胸のうちにくすぶらせ、時にはじっと耐え、時には激情をあらわにしてきた。

 それは、朴正煕の娘である朴槿恵パククネ大統領を弾劾罷免に追い込んだ崔順実チェスンシルゲート事件の時にも表れた。韓国現代史に名を刻んでいた金載圭という暗殺者が再び世に注目されることとなったのだ。

 「春窮麥嶺難越チュングンメンニョンナノル(春窮、麦嶺越え難し)3春になり食糧が尽きて木の皮を剥いて食べる「春窮」、麦が収穫できるころまで耐えられるかどうか分からない「ポリッコゲ(보릿고개)」という言葉があった。」という言葉がまだ残っていたほど貧しかった韓国を経済的に発展させ近代化を推し進めた朴正煕大統領と、ファーストレディとして国民から慕われた陸英修ユクヨンス女史の面影を持った朴槿恵が、実は崔太敏チェテミン・順実父娘おやこの傀儡であったことは韓国国民を失望に陥れた。
 そしてその事件の元凶である崔太敏の不正を追及していた人物こそが金載圭中央情報部長だったのだ。
 朴正煕が娘可愛さに崔太敏の不正を黙認してしまったという事実が再び発掘されると、当時まだ生まれていなかった若者世代を中心に、金載圭が再評価される運びとなったのである。

 金載圭は裁判の過程で、大統領を殺したのは民主主義回復のためであり、10.26は国民によって審判が下されるべきだと語った。彼はそれを「第4審」と呼ぶ。
 37年の歳月を経て、金載圭自身が望んでいた「第4審」が起こったのである。

金載圭の二面性

 ――金載圭は最大の背信者だが、決して悪い人間ではなかった。

 金載圭を直接的に知っている人々は、概ねこのような印象を彼に対して抱いていた。
 10.26事件に関連して逮捕された鄭昇和チョンスンファも、逮捕される前までは金載圭に好印象を持っていたし、青瓦臺チョンワデ民情首席秘書官として公務で金載圭と関わった朴承圭パクスンギュも「大統領に対して、とんでもない不忠をしでかしたが、性格だけは悪くない」と評していた。
 事件現場に同席していた金桂元キムゲウォンに至っては、人生を暗転させた元凶である金載圭を変わりなく信じていると言い切るほどだった。
 金載圭の部下――特に直属だった朴善浩パクソノ朴興柱パクフンジュは逮捕後も、上官の命令に従うものとして、後悔する様子を見せなかった。
 金載圭は日ごろから部下に対しては優しく思いやりがあり、仕事を斡旋したり、生活面でも面倒を見てくれるような上司だった。
 野党・新民党総裁だった金泳三キムヨンサムも金載圭と長時間に渡って面談したことがあったが、悪い人間だという印象はなかったという。

 一方で、彼には別の顔があった。

 金桂元は金載圭について、このようにも評していた。
「金載圭は自尊心と義侠心が強く、猪突猛進的で推進力もあるが、後始末ができない人間だ」

 その上金載圭は、普段は礼儀正しく温厚だったが、ひとたび激昂すると上官ですら制止できないほどの怒りを表出させていた。
 その怒りは、理不尽な物事や、傲慢不遜な人物に対して向けられた。時には、目上の者に対しても容赦がなかった。彼は平常なら、立場の異なる相手の話にも理解を示すような人間だったということを鑑みると、よほど腹に据えかねる状況に追い込まれたのだろう。

 ならば、10.26当時は彼が到底忍耐できないほどの理不尽さを感じる状況だったのだろうか。それは特定の誰かに対してだったのか。衆目の一致する傲慢不遜な車智澈チャジチョルに対してだったのか、それとも、車智澈を寵愛する朴正煕に対してだったのか。あるいは、金載圭自身が主張するように、維新独裁体制の理不尽さへの不満だったのか。

 12.12粛軍クーデターで部下たちから反乱され、何より理不尽と無情を経験した元特戦団司令官の鄭柄宙チョンビョンジュは、金載圭への印象をこう語っている。

「時には頭が鋭く切れ、時には子供のようだった」

 人はいくつもの顔を持っていると言うが、金載圭のそれは単純明快であった。しかしながら、大恩ある朴正煕に銃口を向け、自身の命まで投げ出してしまうほどの極端な行動が、逆に理解を困難なものにしている。

 金載圭とは、どのような人間だったのか。

 彼は一人の殺人犯であるが、大統領という国家元首の殺害は、時代が時代ならば”大逆”である。私的な人間関係においても、彼は恩を仇で返した裏切り者だ。一方で、独裁に苦しんだ人々によって、あるいは民主化後の歴史的観点からは”義士”と見られる向きもある。

 金載圭の為人ひととなりにおいても、彼に対する韓国内での評価においても、二面性を持っているのだ。

金載圭を追及した書籍

 ”人間・金載圭”について追究した著書が韓国から出版されている。

 一冊は1985年に出版された『10·26과 金載圭(10.26と金載圭)』。著者は当時『月刊新東亜シンドンア』の記者だった金大坤キムデゴン。まだ言論統制がある全斗煥チョンドゥファン軍事政権下で、この本は禁書となってしまった。書名の通り、10.26事件は言うまでもなく、金載圭の人間性にも焦点を当てた内容となっている。『10·26과 金載圭』は、2005年に追加修正された上で『김재규 X-파일(金載圭Xファイル)』に改題し、20年ぶりに再出版されている。更に2016年には『김재규의 혁명(金載圭の革命)』に改題して、新たに80枚分の原稿が追加されて再々出版されている。

 もう一冊は『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』。著書のオ・ソンヒョンは米国留学中にペンシルバニア大学教授・李庭植イジョンシクが著した『인간 김재규(人間 金載圭)』を読んで感銘を受け、ニューヨーク州立大学在学中には金載圭の義兄(金載圭の妻・金英煕キムヨンヒの姉の夫)に当たる崔世鉉チェセヒョン410.26事件当時、駐日韓国公使を務めていた。事件後、米国に亡命。と直接会って話を聞く機会を得た。その後もあらゆる資料と、金載圭の身内や友人など関係者からの証言を集めた。この本は書名から察せられるとおり、金載圭により傾倒した内容となっている。

 管理者の手元には日本の国会図書館で入手した『10·26과 金載圭』のコピーと、『김재규 X-파일』『비운의 장군 김재규』の二冊がある。これらを中心に、金載圭の生い立ちと経歴を追っていくことにする。
 

活発な少年時代

 金載圭は慶尚北道キョンサンブクト善山郡ソンザングン善山面ソンサンミョン里門里イムンリ5善山面は、1979年に善山邑に昇格している。「里」と「洞」の名称は何度か変更が見られる。金載圭が10.26公判の人定質問で答えた本籍地は「慶尚北道善山郡善山邑里門洞」。現在、里門洞は里門里となっている。(現在の慶尚北道亀尾市)で、父・金炯哲キムヒョンチョルと母・權有今クォンユグムの間に生まれた。本貫は金寧金キムニョンギム氏。
 戸籍上は1926年3月6日生まれであるが、実際に生まれたのは1924年4月9日6オ・ソンヒョン著『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』によると、1925年11月19日生まれとなっている。しかし、法廷での金載圭自身の発言に照らし合わせると、1924年生まれになる。であるという。
 日本統治下時代であった。
 8人兄弟(3男5女)の第一子であり、長男。すぐ下に弟の恒圭ハンギュがおり、5人の妹(ジェソン・ジェスク・ジョンスク・檀姫タニ・スニ)が続き、歳の離れた末弟に英圭ヨンギュがいる。

死六臣? 金文起の子孫

 金載圭は金文起キムムンギの十八代目子孫に当たる。

 氏朝鮮の第6代国王・端宗タンジョンはわずか11歳で即位したが、叔父の首陽大君スヤンテグン世祖セジョ)による癸酉靖難ケユジョンナンという宮廷内クーデターによって王位を奪われた。それに反発した成三問ソンサンムンら文臣たちが端宗の復位を計画したが、裏切りによる密告で発覚してしまい、成三問・朴彭年パクペンニョン河緯地ハウィジ李塏イゲ兪応孚ユウンブらが捕らえられ、拷問の末に車裂刑に処された。柳誠源ユソンウォンは捕らえられる前に自宅で自殺した。この六人が「死六臣サユクシン」として記録されている。金文起はこの「死六臣」と連座して、彼らと同様に処刑されているのだが、曖昧な立ち位置にされてしまった人物だ。
 拷問を受けても忠節を尽くし、車裂刑に処されたという事績は「死六臣」と何ら変わりはないのだが、「生六臣センユクシン」の一人である南孝温ナムヒョオンが著した『秋江集チュガンジプ六臣伝ユクシンジョン』の中に含まれていなかったがために、金文起は公的に「死六臣」として扱われていないのだ。

 いずれにせよ金文起は、忠節を尽くした偉人として崇拝されていた。主をしいして歴史に名を遺す金載圭が、忠臣・金文起の子孫であるという名誉欲を拗らせて権勢を振り回すことになるのだが、それはまた後の話である。 

村の名士だった父

 金載圭の祖父である金致善キムチソン7『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』では、祖父の名は「김치권(キム・チグォン)」と記されている。は善山面禿洞トクトンに住んでいたが、金載圭が生まれる前に亡くなっている。
 伯父が家を継いで、祖父の友人の保証人となったことが原因で生活が破綻してしまい、里門洞8ここでは、文献に従って「里門洞」と表記する。へ移住した。
 金炯哲は弱冠16歳で結婚して家長となり、17歳の時に妻と妹を連れて日本に渡り、製糸工場の監督を務めていた親戚の後任となった。日本語が堪能な上に有能だった彼は、帰国前には既に里門洞に小さな家を建てていた。帰国後は手袋工場を経営した後に、日本人地主の精米所で働き、独立して自身の精米所を経営した。
 40歳頃には金載圭の本籍地に当たる里門洞に、村でも指折りの豪邸を建てた。当時としては珍しい瓦葺屋根9『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』によると、建てられた当時は隣り近所同様に藁葺屋根だったが、1975年に、建設業を営む弟の金恒圭が瓦葺の家を建てたという。のコ字形の邸宅で、風呂まで付いていることは地元でも有名になった。

 金炯哲は、貧しい村の人々を率先して助けた。第二次大戦末期になると、供出で生活苦となり食べることすら困難な家の前に食糧を置いて来ることもあった。逮捕された青年たちの保証人にもなった。
 彼はまた、その当時、学校が無かった善山面に、中学・高校を設立するために尽力した。地域の水害を防ぐために堤防の建設にも協力した。

 金炯哲はこのような篤志家で、善山に知れ渡る名士だった。

小さなガキ大将

 金載圭はこのように非常に恵まれた家庭環境で生育した。
 体こそ小さかったが、正義感が強く、人後に落ちない話術の持ち主だったので、家柄の良さも影響したようだが、近所の子供たちの多くが彼に付き従った。
 金載圭は戦争ごっこの隊長役を務め、野山を駆け回り、何不自由ない幼少時代を過ごした。

厳格な母と祖母ちゃん子

 父親は基本的に温厚だったが、仕事で忙しく、家にいる時間はほとんどなかった。金載圭は夕方になると父親を恋しがる様子を見せた。

 父方の祖母や従姉も身近に暮らしていたため、金載圭は女たちに囲まれて育った。

 母の權有今は近所でも評判の厳格な母親で、子供を鞭で叩いてしつけていた。特に金載圭は長男であったために格別に厳しくしつけられ、鞭で叩かれる回数も兄弟で最も多かった。

 この時代は、父母が子供を厳しく育てる代わりに、祖父母が愛情を注ぐ役割を担うのが普通だった。そういう事情もあって、母親は厳しかったが、父方の祖母(寧越嚴ヨンウォルオム氏)からは溺愛されたため、金載圭は祖母の写真を持ち歩いて周りに自慢するほどのお祖母ちゃんっ子になった。

 金載圭は物事への執着が人一倍強い子供だったと親族の一人は回顧する。
 ある時、金載圭は母親の織機の棒をコマ回しの道具にしようとして酷く叱られた。彼は思い通りに行かないことに癇癪を起こして、紐を首にくくって竹垣に繋いだので、それを見た祖母がショックで倒れてしまったという。

 また、幼い頃からケンカになると年上相手でも歯向かう性格だった。
 5歳の頃に3歳上の従姉キム・ジェブンとケンカになり、顔を引っかかれてしまった。しかし親に泣きつくようなことはせず、武器を持って顔を引っかき返すような子供だった。

やんちゃな男の子

 金載圭は善州ソンジュ普通学校(小学校)に入学した。祖母が父兄として通学に付き添ってくれていた。

 好き嫌いが激しく、好きな科目の授業は熱心に受けたが、嫌いな科目は放り出していたので、成績にはムラがあった。
 習字が得意で賞をもらったこともあった。彼は入学前には既に「千字文10異なる一千字を使った長文の漢詩。子供の漢字教育や書道の手本に使われた。」を習得していた。
 体は小さかったが、100メートル競走が得意で、体育の成績は常に良かった。
 音楽も得意で、彼は特に歌うことを好み、それは大人になってからも変わることがなかった。

 他の子供と取っ組み合いのケンカをしたり、隣りの席の子をつねっていじめるので、そのたびに教師から体罰を食らっていた。
 目立ちたがり屋な面があり、農作業中に一人だけ真ん中で立ち上がってカメラ目線で写真に写るような子供だった。
 当時の担任教師はそんな彼に「奇計キゲ」とあだ名を付けた。

 一方で、この頃の金載圭は中耳炎を患っており、欠席が多かった。この病気がきっかけで、彼は片耳の聴力が著しく落ちていた11『김재규 X-파일(金載圭Xファイル)』では、軍人になってから上官に殴打されて鼓膜が破れたことが原因とされている。

 金載圭が11歳の時に祖母が亡くなると、母親は息子を鞭打つことはなくなり、可愛がるようになった。
 金載圭のきかん坊な性格は、弟・金恒圭との関係にも表れた。
 載圭が好んで吹いていたハーモニカを弟が隠してしまうイタズラを繰り返したので、怒った兄はハーモニカを壊して、父親の帳簿を持ち出して新しいハーモニカを買ってしまった。
 これが父親に見つかり、言うまでもなく載圭は折檻を受けた。載圭が弟に乱暴するので、父・金炯哲は恒圭の方を可愛がるようになり、載圭は母親に懐くようになった。

 金載圭は外では活発な少年であったが、家の中では几帳面だった。常に身の周りの物を整理整頓し、服をきちんと畳み、皺のないトゥルマギを着て通学をした。
 悪さをしては親や教師から厳しく叱られていたが、礼儀正しく繊細な面を持っていた。

 几帳面な性格で身綺麗にはしていたが、突飛な行動も取る彼は、6年生になると学ランのズボンを短く切って穿くようになった。彼は級友たちに「おまえらもやってみろよ。カッコイイぞ」と言って勧めていた。反抗心の芽生えだったようだ。

日本人警官に反抗

 特筆すべきは、12歳の時の逸話である。

 下校中のことだった。通りかかった市場で金載圭は、きこりが日本人警官から蹴られているところを目撃した。何でも15銭の薪を5銭で売るように強要された上に自宅まで運べと言われたので樵が断ると、警官が怒り出して、このような暴行に出たというのだ。
 義憤に駆られた金載圭は警官を指差して叫んだ。

「この巡査は泥棒だ!」

 怒った警官はまだ子供の載圭を捕まえて、駐在所の留置所に放り込んでしまった。
 村の名士である父親が迎えに来て事なきを得たが、帰り道、父は幼い息子にこう諭した。

「お前のしたことは正しい。しかしな、男というものは忍ぶべき時は忍ばねばならん」

 彼はこのように、時として自分よりも強い立場の人間にも敢然と歯向かうことがあった。

 1939年、金載圭は善山国民学校を卒業した。卒業式の写真では、最前列に座る金載圭のズボンだけが短く、中から股引のような肌着が覗いていた。


参考文献

  • 金大坤『10·26과 김재규』도서출판 이삭 1985年
  • 오성형『비운의 장군 김재규』도서출판 낙원사 1995年
  • 김대곤『김재규 X-파일』도서출판 산하 2005年
  • 趙甲濟 著・黄民基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【