1979年10月26日、朴正煕大統領と共に金載圭中央情報部長によって射殺されたのが、青瓦臺警護室長の車智澈だった。
真っ先に犯人と疑われた車智澈
彼はこの事件においては犠牲者の一人であったが、あらゆる方面から、まるで事件を引き起こした元凶であるかのような扱いを受けている。
まず、陸軍保安司令部合同捜査本部の発表によると、金載圭の犯行動機の第一として「車智澈警護室長の傲慢不遜な態度や越権行為などに対する不満」が挙げられている。
巷間でも、事件は金載圭対車智澈の権力闘争が主原因と考えられていた。
金載圭本人は、自身の殺害動機を「民主主義回復のため」と主張しているので、彼は法廷でもっぱら朴大統領については言及したが、車智澈については「ついでに殺しただけ」と、にべもない。
何より、朴正煕大統領有故1有事があったという意味の第一報を聞いた鄭昇和陸軍参謀総長と盧載鉉国防長官が真っ先に浮かべた犯人像が車智澈警護室長その人だったのだ。
以下は二人の回顧。
鄭昇和「とっさに北傀2北朝鮮に対する蔑称の南侵を心配した。(中略)しかしすぐに、犯人は車智澈ではないかと思うようになった。彼に対する私の悪感情がそう思わせたのかもしれない。車智澈は軍に影響力を行使しようとして、あれこれ画策していた。陸軍本部を通さずに直接一線の部隊長に連絡できるよう、警護室の機能を作り変える一方で、大統領が地方に出かけることを軍に知らせず、国会の人事や政治資金にも手をつけていた。そんなところを見ていたから、『とんでもないことをしでかす奴だ』という印象が頭の中にこびりついていた。ましてや、警護室の管轄地区内で大統領が狙撃されたという。車智澈が犯人だと思わない方がどうかしている。あとで聞くと、盧載鉉国防長官も私と同じことを考えていた」
盧載鉉「車智澈の平素の行ないからして、彼ならやりそうなことだと考えた。(略)車智澈が軍の指揮系統をたびたび乱していた」
殺害犯でありながら、一部では「義士」と英雄視する向きすらある金載圭の代わりに、まるで一身に悪役を引き受けているかのような車智澈という男。
当時の政権の参謀たちが1920年代生まれである中で、彼は1934年生まれで、亡くなった当時は45歳を目前にした若さだった。
その上、軍人出身者たちで占める軍事政権の中にあって、彼は尉官上がりな上に、陸軍士官学校卒ですらなかった。そんな”青二才”でしかない彼が、長官や将軍クラスの者たちを顎で使うような振る舞いをしていたというのだ。
劣等感を抱いた私生児
車智澈は京畿道利川郡麻長面で出生したと言われる。
車智澈の母・金大安は村の居酒屋で水商売をしていた。智氏姓の男性との間に三人の娘を産んだ後、延安車氏姓の男性の後妻となり、車智澈を産んだ3車智澈の名に「智」という字が入っているのは、このような事情からだという。。しかし車智澈は庶子だったため、父親の顔をまともに見ることはなく、腹違いの兄たちからも穢れた犬畜生の仔を見るような蔑みと冷遇を受けて育ったという。
龍山高校卒業後は朝鮮戦争の最中だったため、学徒兵となった。陸軍士官学校11期412期とする資料もある。の試験に失敗したが、それを機に必死に猛勉強をした。口数は少なく、友人と交わることもなく、独りで格闘技に打ち込んだ。テコンドーと合気道はそれぞれ五段、剣道は三段だった。
彼は砲兵幹部試験に合格して砲兵将校となったが、陸軍士官学校出身者への劣等感を強く抱き続けていた。
1959年に空輸特戦団に配属され、翌1960年に米国ジョージア州にあるフォート・ベニング(Fort Benning)基地のレインジャースクールに入校して訓練を受けた。
その訓練中に米国人教育実習生から人種差別を受け、相手を叩きのめしてしまうという騒動を起こした。危うく退校させられるところだったが、共に訓練を受けていた全斗煥が片言の英語で弁護したことで事なきを得た。
一方で、自分より体格が勝る相手を、まるで凶器を使ったかのように圧倒していたため、彼の武術の腕は高く買われたようである。
車智澈は幹部候補生として少尉になった。
彼は将校になったのち、隣りにいた部下にこう話した。
「俺がなぜ強くなったか分かるか。孤独とともに成長したからだ。俺の人生には父も兄もいない。母だけがいたのだ」
車智澈は実際、父親の話を一度もしたことがなかったという。
彼が第7代議員に当選したころ、東橋洞の自宅に兄と名乗る人物が訪ねてきたことがあったが、「俺に兄はいない」と門前払いしてしまった。
朴正煕との出会い、そして5.16参加へ
5.16軍事クーデター時の有名な写真には、朴正煕少将を中心にして、左右には後の青瓦臺警護室長となる朴鐘圭少領と車智澈大尉が付き従う姿が写っている。
車智澈と朴正煕の最初の出会いは、5.16クーデターからさかのぼること一ヶ月ほど前だという。
「4.1961960年4月19日に発生した李承晩政権に対する反体制学生革命一周年危機説」が流れ、政局が混迷する中、ソウル市内の様子を窺っていた車智澈は不安に駆られ、兄貴分として慕っていた朴鐘圭少領を訪ねて行った。朴鐘圭と車智澈は兵科こそ異なるものの、米軍レインジャーコースを経たきっかけで近しい間柄だった。朴鐘圭は車智澈に、「すぐに軍が動く」と革命計画を耳打ちした。数日後、車智澈は朴鐘圭の紹介で朴正煕少将と初対面する。
車智澈は後年、警護室長に就任してから、側近にその時の朴正煕に対する印象を語っている。
「閣下は灰色のバーバリーコートにサングラス姿だった。私の敬礼を受けると、特にお言葉はなかったが、微笑を浮かべて手を差し出された。サングラスをかけておられたので、表情は判らなかったが、とても強靭な方だと感じた」
女手一つで育てられた車智澈にとって、朴正煕は自身を導いてくれる強い父親のような存在だったのだろう。
彼は5.16に参加した後、最高会議警護隊警護次長7警護隊長は朴鐘圭を経て、朴正煕が政権を執ると、1962年の間に少領から中領へ昇進し、予備役に編入となった。
国会議員博士
1963年に第6代国会議員選挙で民主共和党から出馬して当選。弱冠30歳の若さで国会議員となり、劇的な出世を遂げた。
彼は不足していた学歴を補うため、1964年に国学大学政治外交学科を卒業し、66年には『我々が目指さねばならぬ座標』という著書を出した。
1970年には漢陽大学で政治学を専攻し、『地域的集団安全保障制度』という題目の論文で博士号まで取得した8当時は政治家に対して学位を乱発するのが慣習となっていたため、権力で買った博士号と揶揄されている。。朴正煕はその一報を聞くと、「ついに我が5.16革命軍の中から博士が誕生したぞ」と、ことのほか喜んだ。
その一方で、車智澈は政治の場でも拳にモノを言わせていたようだ。彼は他の議員を殴打していた。しかしそんな車智澈でも、金斗漢には手が出せなかったという。金斗漢は過去に殺人歴があり、この頃も議会で丁一權国務総理に向かって糞尿をバラ撒いて逮捕されている9金斗漢は侠客と呼ばれ、たびたび映画やテレビドラマの主役になっている。映画『将軍の息子(장군의 아들)』や、テレビドラマ『野人時代(야인시대)』などがある。。
車智澈はベトナム戦争派兵に対して強硬に反対した。それは米国に派兵の対価を払わせる目的で、当初は朴正煕が車智澈に指示したデモンストレーションであったようだが、車智澈自身が反対派に傾倒したという。
朝鮮戦争で支援してもらった立場である韓国は米国に従うよりほかなかったが、車智澈の強硬的な対米交渉で、韓国は米国からの経済支援を引き出すことができたため、朴正煕からの覚えが良かった。
堅物な孝行息子
1966年9月、車智澈は名門大学出身で家柄も良い美貌の女性ソン・ヒソンと結婚するが、その新婚生活は僅か二十九日で破綻した。離婚原因は新妻の不倫とも、姑への孝心の無さとも言われていたが、後年それらは事実ではないと法的に認定されることになる10車智澈の側近の発言を引用した中央日報が、1991年にソン・ヒソンから告訴され、賠償金支払いを命じられたという。よって、この離婚理由は真実ではないと認定されたことになる。。
いずれにせよこの新婚生活の破綻は、車智澈にとって深い傷を負うものとなった。彼は親しい記者の前で、泣きながら身上を訴える事もあったという。そしてそれを機に己の人生を見つめ直すため、彼の基督教信者としての信仰生活が始まったのだ。
敬虔なクリスチャン
車智澈は、毎週水曜日の明け方4時に三角山の教会に行き、跪いて祈祷を捧げていた。自宅にも信仰のための部屋を設け、毎日朝夕6時に祈祷し、その信仰心が薄れることは無かった。
酒もほとんど飲まず、道楽めいたことには一線を置いていた。
車智澈は近い側近に、こう洩らしていたという。
「閣下は早く再婚なさるべきだ。お独りで心細いから女を求めたりして……。金載圭が閣下の御機嫌取りで映画女優だのタレントだのをしょっちゅう呼んで来るんだが、俺は教会に通う身だから、そんな真似はとても出来ないよ」
道楽とは無縁な潔癖症
車智澈は外見によらず、繊細で潔癖な性格だった。堅物とさえ言えるほどだった。
彼は壁に掛かっている絵が5ミリでも曲がっていたり、部屋の隅に埃が落ちていることも許さなかった。
きちんと整髪し、軍靴はピカピカに磨き上げ、アイロンを掛けた制服に皺が寄るのも嫌った。政治家になったのちも周囲から舐められないように、30代の若さで三つ揃えの黒い背広に中折帽という60代のような服装をしていた。
元々体質的に受け付けなかったようで、酒を嗜まなかった。10.26事件当時も、彼は注がれた杯に口をつける振りだけをしていた。当時としては珍しく、喫煙もせず、趣味でゴルフをすることもなかった。
一度関わったことは最後まで見届けなければ気が済まない性格だった。
朴正熙政権の中枢にいた大物人士たちに女性遍歴は付き物だった。中にはスキャンダルに発展したものもあった。殺害された鄭仁淑は丁一權の子を産んだという。朴正煕大統領が命を落とした”大行事11大統領・秘書室長・中央情報部長・警護室長・酌婦2名によって、中央情報部私設内で行われる酒宴を指す隠語。”は、彼を性的に慰労するための接待であったし、金載圭も二人妻生活を送っていた。
そんな中で、車智澈だけは妻一筋で、女性問題がまったく出てこなかったという。
車智澈は1969年にピアノ講師をしていた女性・尹寶英を後妻として迎え、二人の間には三人の娘が産まれている。
母親が一番の孝行息子
何より車智澈は母親孝行で知られていた。朴大統領に忠誠を尽くす一方で、夜には老母の面倒を看る孝行息子だった。
陸英修女史を亡くし、独り身になって淋しがるようになった朴正煕は、車智澈に青瓦臺に移り住むように勧めていたが、車智澈は老母を口実に断り続け、新村の自宅から通勤していた。
こういった事情をどこからともなく聞きつけたのが現代グループ会長の鄭周永だった。
青瓦臺裏側の三清トンネルを越えた日本大使館の隣りにある150坪ほどの敷地に、約80坪の二階建ての家を建てて車智澈警護室長に贈ると言ってきたのだ。
車室長は鄭東星議員にこの話を伝えて言った。
「鄭会長には受け取れないと断った。自分の仕事に精を出せと言ってやったよ」
ところが今度は朴大統領までもが勧誘してきたという。
「鄭会長が建てた家に行きなさい。近くに住んだらいいじゃないか」
車智澈は、大統領と鄭周永会長との間で何か話があったのだろうと察し、警護室長の公館として暫くの間だけ住むことにするという条件で引っ越した。
車智澈にとっては母親が第一であった。朴大統領が水泳に誘っても、母親が禁止すれば水に入ることすらしなかったという。
母親が働いているのに自分が遊ぶことはできないと言って、行事や接待を除けば、趣味でゴルフをすることもなかった。
普段は上を上とも思わぬ傲慢不遜な男だったが、金桂元秘書室長の母親の体調が思わしくない時は、自ら大統領に報告してヘリコプターを貸し出すように手配するなど、”母親”が絡むと、他人に対しても情を見せることがあった。
参考資料
- 金璡『青瓦臺비서실1』中央日報社 1992年
- 『2중성격 지닌 차지철(청와대비서실:15)』중앙일보 1991年3月1日
- 鄭炳鎭『實録青瓦臺 궁정동銃소리』韓国日報 1992年
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【】
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 趙甲濟 著・黄民基 訳『別冊宝島89 軍部!』JICC出版局 1989年
- 나무위키 namu.wiki/차지철