学生時代の苦境
日本の学校生活に馴染めず
安東農林学校は当時、慶尚北道北部にある唯一の中等教育機関で、競争率が高く、入学率は十人に一人の割合であった。国民学校時代の成績が上位一割に入っていなければ進学できず、成績が中の上止まりだった金載圭は安東農林中学校に進学できなかった。
父・金炯哲はやむを得ず、載圭の同期生と共に彼らを日本の中野無線電信学校に入学させたが、載圭は日本の生活に馴染めなかった。偏食家だった彼は芋や海苔やきなこ餅を好んだが、好物を思うまま食べられない鬱憤が溜まった上に、人間関係も上手く行かずに日本人学生とケンカになり、彼は同期入学したイム・ミョンスに「ムカつくから俺はもう学校には行かない」と伝えるとサッサと帰国してしまった。
中野無線電信学校を中退した金載圭は、勉強して再び安東農林中学に入ろうと面接を受けたが、ここでも面接官を閉口させる騒動を起こした。日本人面接官から「大人になったら何になりたいか」と尋ねられると、「日本人を討伐する義兵大将になる」と答弁したのだ。日本での留学生活の感想を尋ねられれば、「日本人から『朝鮮人』呼ばわりされるのが嫌だった」と率直に不満を吐露した。
危うく不合格になるところ、ここでも父親の助けがあった。金炯哲は、善山の郵便局長・小林を頼った。彼の婿であるヒグチは安東農林学校の教師を務めており、保証書を書いてもらうことで何とか載圭を農業科に入学させることができた。
しかし、この出来事で金載圭は反日精神を持った学生として目をつけられ、困難な学校生活を送ったようだ。
安東農林学校時代
1941年、金載圭は安東農林学校に入学すると、級友であるキム・ゴンの家に下宿して通学した。キム・ゴンの母を慕い、後々まで挨拶に訪れるほどの義理堅さを見せた。
金載圭は実家に帰れば、妹たちと一緒に遊ぶ優しい兄だった。すぐ下の弟・恒圭を殴って𠮟りつけることはあっても、妹たちを叱ることはなく、一緒に「タンタモッキ1地面に丸や四角を描いて、小石を弾く国盗りゲームのような遊び」をして遊んだ。
従兄姉たちとも親しく、従兄の妻には化粧品を贈ってあげることもあった。
金載圭は歌が上手く、ユーモアに富んだ性格だったため、友人たちの間ではムードメーカーだった。争いごとの仲裁役も担った。彼に付けられたニックネームは「乃木大将2乃木希典」と「エノケン3喜劇役者の榎本健一」だった。
この頃の同窓生たちとも晩年まで交友が続いた。
金載圭は整理整頓し、身だしなみを整える礼儀正しい少年だった。汽車のホームに置いていた鞄を女性が跨ぐところを見てしまい、中に入れていた服を二度と着なくなるほどには、潔癖症であった。
しかし一方で、彼は敢えて反抗的な態度を取り、リュックをわざと片側の肩に引っ掛け、靴のかかとを踏んで歩くなど、だらしない素振りを見せることがあった。日本式の厳格な教育に不満があったようだ。金載圭には反日的な思想があったと級友は振り返っている。
この頃には、彼が日本人警察官の自転車を真っ二つに壊したという定かではない話もある。
この時期に創氏改名があり、金載圭は日本名「金本元一4この読み方は韓国のウィキサイト「ナムウィキ(나무위키)」と日本語Wikipediaに掲載されているが、その出典は不明。」として過ごした。
金載圭の学業成績は良いとは言えなかった。1学年時に27日欠席があり、席次は110名中100位。英語(85点)と植物(81点)の成績が良く、教練で最も低い点数(65点)を取った。2学年時には15日欠席があり、席次は106名中87位。造林森林保護の成績が良く、物理や生物の成績は悪かった。
3学年になると成績の評価が秀優美良可式に変わった。英語で秀、代数と教練で可を取った。
1学年の終わりから2学年の終わりにかけての約一年間、金載圭は体調を崩しており、従姉のキム・ジェブンが下宿先にまで来て看病していたようだ。欠席が多いのはこのためであった。
しかし、陸上競技が得意な彼は、病み上がりでも優れた跳躍力を披露した。
”神風特攻隊”訓練生に
3学年の冬休みに、金載圭は一人旅に出た。同行予定だった友人が行けなくなったため、彼は一人で金剛山の雪景色を眺めた。しかし、この旅は不穏の前触れとなった。
結局、彼は安東農林学校も無事に卒業することはできなかった。特別幹部候補生として、日本の航空機操縦士養成所である四日市航空兵学校に入隊したからだ。4年生になったばかりのころに学年全員が志願を強制され、試験と面接で金載圭と林業科の金亨奎だけが合格したのだ。
それは”神風特攻隊”としての訓練だった。
日本に行く前日、4学年の同期生たちが集まり、送別会が開かれた。真夜中に酒を呑み泥酔した彼らは金載圭を胴上げしたり肩に担ぎ上げて騒ぎ立てた。日本人警官が叱りつけると、興奮した彼らは警官の自転車を破壊した。さらに禁止された歌まで歌い出した。この騒動で20人以上が停学処分を受けた。
1944年4月、雨が降る日に金載圭は汽車に乗って釜山に旅立ったが、この時も同期生たち皆が押し寄せて来て行く手を塞ごうとしたので騒ぎとなった。
この日、列車に乗って釜山まで同行した担任教師・ヒグチミノル5オ・ソンヒョン著『비운의 장군 김재규』によると、金載圭が入学できるように保証書を書いてくれたヒグチ教師と同一人物。は見送る時、金載圭に告げた。
「やがて日本は滅びる。お前は必ず生きて帰って来る」
金載圭はヒグチに終生感謝していた。彼は中央情報部長になっても、70代の老人となったヒグチを料亭に招いて安東農林学校時代の同級生とともに過ごした。
航空兵学校での訓練は過酷で、そのストレスは無線学校時代とは比較にならなかった。
ある時、金載圭は消灯時間になっても歌を歌っていたという嫌疑を掛けられ教官から激しく殴打されたが、耐えきれなくなった彼はついに椅子を振り上げて反抗し、教官が謝罪する羽目になった。彼は限界値を超えると、いかなる相手でも反抗を辞さなかった。
1945年8月15日、玉音放送が流れ、日本の降伏が告げられた。金載圭はすんでのところで命を拾った6『김재규 X-파일』では任官六か月前に解放を迎えたとあり、『비운의 장군 김재규』では出発する三日前と書かれている。
金載圭は奇跡的に生き延びて故国に帰って来た。彼の特攻隊訓練生への選出は、実は父・金炯哲にも知らされていなかった。息子の出立を事後に知らされた金炯哲は、親の同意も無く息子を戦地に連れて行かれたことに激怒していた。最期に餞別を贈ることすらできなかったからだ。それだけに、載圭が無事帰還できたことは家族・親戚たちを驚かせた。彼らは喜びの宴を開いた。
金載圭は暫く郷里の善山に留まり、金泉中学で体育教師を務めた。
断固として拒絶した初婚生活
金載圭が郷里に帰って来た当時、母・權有今はヘルニアを患って臥せっていた。金炯哲は「お母さんの具合が良くないから、早く結婚して嫁の顔を見せてやれ」と言って、載圭を善山郡長川面に住む友人安氏の三女と結婚させた。本人の意思を聞かずに、既に両家の間で決められていたことであった。当時はそのような形の婚姻が珍しくなかったが、何事も自分の意思を通したい性格の載圭には当然納得が行かなかった。彼は「結婚するくらいなら僧侶になる」と言って抵抗し、甚だしくは婚礼衣装まで燃やしてしまった。
花嫁のことも受け入れられなかったようで、新婚初夜も逃げ出して父親に捕まり連れ戻される始末だった。父からの厳命により三日間は我慢して過ごしたようだが、彼はその後も会話はおろか、妻の傍に寄ることすらしなかった。嫁を不憫に思った金炯哲は息子を諭すが、載圭は生返事を繰り返すだけだった。「あの女と生活するくらいなら僧侶になる」とまで言い放ち、坊主頭にしたことさえあった。「新行7結婚して一年後に、夫が妻の実家に帰ること」の時でさえ、妻の実家に行くことはなかった。
この頃、金載圭は教員を辞めて軍人になることを決意した。のちに彼自身がその理由について、「軍が生理的に合っていたから」と述べているが、家に居づらくなったことも無関係ではなかったようだ。
金載圭はそれ以降、年に一、二回程度しか実家に帰らず、妻・安氏は長年放置され、舅・金炯哲に宥められながら過ごしていたようだ。安氏とは入籍していなかったこともあり、金載圭自身がのちに意中の女性と出会ったことを機に、二人は離縁した。
軍人生活の始まり
陸軍士官学校2期生
1946年9月25日、金載圭は朝鮮陸上警備隊士官学校(陸軍士官学校)の第2期生として入校した。
この時期、彼は運命的な出会いをする。
朴正煕は慶尚北道善山郡亀尾出身で、金載圭と同郷でもあった。しかし同期とは言っても、戸籍上では9歳も年齢が離れていた。2期生は年齢差が最も大きく、20歳から30歳までがおり、朴正煕は当時29歳だった。金載圭は同期生たちの中では最年少に属していたことになる。
この頃の二人は胸筋を開いて語り合うような関係ではなかったと、金載圭自身が10.26事件の法廷で話している。
この年は凶作で、補給がままならず、2期生たちはトウモロコシやサツマイモで凌いで訓練を受けることもあった。冬になっても卒業式は夏服で出席せねばならないほどだった。
学生時代に教練の成績が振るわなかった金載圭は、ここでは打って変わって196名中14位という優秀な成績で士官学校を卒業することができた。
名誉免官、そして復職
金載圭は大田の2連隊に少尉として任官したが、その生活は長くは続かなかった。1947年6月、名誉免官措置を受け、軍服を脱ぐことになったのだ。金載圭は10.26事件の控訴理由書にて、その理由について記述している。
大田所在第2連隊中隊長代理として補職してから、連隊情報主任として勤務……当時の連隊長・金鍾碩大領が実は左翼の活動家だったのですが、カトリック信徒や韓民党員8「韓民党」は韓国民主党の略。韓国独立前後にあった保守政党。になりすましてオルグ対象者を物色していることを知り、これをやめさせようと忠告したのですが聞き入れてもらえませんでした。互いに険悪になる中で、大田で市民サッカーの試合があり、試合後に軍と警察が乱闘騒ぎを起こして、当時、私が日直司令として勤務していたこと9김대곤『김재규 X-파일』によると、当時日直司令だった同期生のパク・ノギュが突然胃痙攣を発症したため、命令なく金載圭が代わりに勤めたという。に託けて、中尉進級予定日だった1947年6月1日付で連隊長を解任され、名誉免官となり、軍を去ることになりました。
しかし、これとは異なる理由が『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』と『김재규 X-파일(金載圭 Xファイル)』それぞれに記されている。
当時、国家警備隊は米軍の監視下に置かれており、正規軍ではなかった。彼らは国軍ではないという劣等感を抱いていたために警察官とは摩擦があった。そんな状況にあって、大田で国家警備隊と警察官の間でサッカーの試合が行なわれれば必然的に荒っぽくなり、ついには争いが起こってしまった。それを知った米軍の顧問官が調査をしたところ、金鍾碩連隊長が当日の日直司令を務めた金載圭少尉の責任であると言う。米顧問官が拳銃を抜いて部下たちがいる前で金載圭少尉を激しく叱責したため、金載圭は耐えられずに日本刀を抜いた。恐れおののいた顧問官は両手を上げてしまった。金載圭は「こんな汚い軍でやってられん」と言って、刀を床に突き立てて出て行ってしまった。
『비운의 장군 김재규』では、この騒動に金載圭少尉には100%非が無く、米顧問官が皮肉にも不名誉ではなく「名誉」免官という措置を下したとしている。
一方の『김재규 X-파일』は、金載圭の親族の証言として、警備隊と衝突したのは米軍だったと記している。
米軍と決闘沙汰になった警備隊兵士(あるいは将校)が営内に逃げ込み、米軍兵士たちが門まで追いかけて来て挑発したのが騒動の発端だという。日直司令として勤務していた金載圭が出て行ったが、言葉が通じない警備隊将校に苛立った米軍兵士たちが遂には拳銃を抜いて突き付けてきたので、金載圭は瞬間、持っていた日本刀を抜いた。恐れおののいた米軍兵士は拳銃を落としてしまった上に両手を上げてしまった。警備隊側としては、やむなく金載圭を名誉免官という形にして事態を収拾させたのだという。
この二つの話は異なっているが、金載圭が銃を突きつけてきた米国軍人に対して抜刀し、相手を慄かせたという点は共通している。いずれにしても、相手が誰であろうと激昂すれば敢然と歯向かう気性の持ち主という金載圭らしい逸話である。
免官されたのち、金載圭は郷里に帰って金泉中学で再び体育教師となったが、慶尚北道の陸上大会で優秀な成績を収めた大倫中学に魅力を感じ、その場で履歴書を持って校長を訪ねた。校長はその気概を気に入って金載圭を体育教師として採用した。
大倫中学では二人の生徒との出会いがあった。一人はのちに政治家となり国会議長となった李萬燮。もう一人が、のちに部下となり、10.26事件に連座して処刑された朴善浩であった。
後日になって、金鍾碩が共産主義者10「パルゲンイ(빨갱이)」とは共産主義者を指す蔑称。赤色という意味で、日本語の「アカ」に該当する。だったことが判明、軍法会議で死刑判決を受け、執行された。金載圭とともに名誉免官となっていた朴始昌11軍人であり、独立運動家として知られている。父親は大韓民国臨時政府大統領・朴殷植。が復職し、彼が金載圭に何度か手紙を書き送って呼び寄せ、復職させた。金載圭はこの件で朴始昌に恩義を感じ、後年、彼の息子である朴維澈のために就職の世話をした。
6.25朝鮮戦争
復職した金載圭は、1950年に安東地区の共匪12共産主義者に対する蔑称討伐作戦に加わった。この時、北の工作員1名を生け捕りにした。金載圭は、即決処分はせず、工作員に情報を提供させた。
功勲を上げ、最初に忠武13「忠武」は3等に当たる。ほか「太極(1等)」「乙支(2等)」「花郎(4等)」「仁憲(5等)」がある。武功勲章を受けた。
そして6月25日、金日成率いる北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南侵する。金載圭は3師団22連隊2大隊長として朝鮮戦争を迎えた。
金載圭は、議政府地区・清澗地区・大邱地区などの戦線で戦った。盈徳地区での戦闘では、護衛兵と運転手を失ったが、高地を死守して戦功を上げた。
金載圭の家族たちは蔚山に避難した。金載圭は妹・ジェソンを女学校に入学させていたが、復職や異動のたびに妹を連れて行き、転校させた。
中国の人民義勇軍、米軍を中心とした国連軍の参戦で戦況はめまぐるしく変化し、前線は北へ南へ移動した。この戦争では軍人や民間人含めて数十~数百万人の犠牲者が出た。
金載圭は後退する最中、部隊や批難民たちの惨状を見て責任を痛感し、拳銃で自決を試みたが、ある大尉によって銃を叩き落とされて阻止された。
その後、彼は北進隊列と共に三水甲山14北朝鮮・両江道(韓国の基準では咸鏡南道)に位置する三水郡と甲山郡。極寒かつ険しい奥地で、かつては流刑地であった。まで進撃した。この時、学徒兵として加わった弟の金恒圭も兄と同じ部隊にいた。しかし、中国人民軍の参戦によって撤収を余儀なくされた。
激戦に続く激戦で疲労は蓄積し、金載圭は栄養失調で衰弱して野戦病院に運ばれた。その時には重症で、視力も聴力も失うほどであった。快復までに長い時間を要した。
1953年7月27日、国連軍と、朝鮮人民軍・中国人民軍の間で協定が結ばれ、朝鮮戦争は休戦に至った。
意中の女性・金英煕と恋愛結婚
野戦病院からようやく退院した金載圭は、麗水地区の戒厳司令官として赴任した。この時期、一人の女性との出会いがあった。
この頃、金載圭はたびたびマラリア熱に冒され苦しんでいた。心配した陸軍士官学校の同期生ノ・ヒョンモクの妻が女学校で国語教師をしていた金英煕15金英姫という表記揺れがあるを紹介してくれた。彼女は順天の名士・金完根の娘で、評判の美人でもあった。金載圭は紹介されるや、金英煕に一目惚れ。二人は一年ほど交際した。
しかし、結婚は容易ではなかった。金英煕の両親は娘を軍人に嫁がせることを快く思わなかったのだ。金載圭に好意的だった英煕の長姉が後押しをしてくれた。両親は偵察目的で、二番目の婿・崔世鉉を善山にある金載圭の実家に行かせた。帰って来た崔世鉉の賛同もあって、金載圭と金英煕は結婚することができた。
参考文献
- 오성형『비운의 장군 김재규』도서출판 낙원사 1995年
- 金大坤『10·26과 김재규』도서출판 이삭 1985年
- 김대곤『김재규 X-파일』도서출판 산하 2005年
- 趙甲濟 著・黄民基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 趙甲濟 著・永守良孝『朴正熙 韓国近代革命家の実像』亜紀書房 1991年