金炯旭回顧録と失踪事件

 金炯旭キムヒョンウクの存在も、朴正熙パクチョンヒ大統領を激怒させ、金載圭キムジェギュ中央情報部長を悩ませた問題の一つである。

 1979年10月7日、金炯旭はフランスのパリ市内で忽然と消息を絶った。朴正煕が暗殺されるわずか十九日前の出来事だった。
 1990年に申英順シンヨンスン夫人がソウル家庭法院1裁判所に失踪宣告を申請し、1991年に金炯旭は失踪宣告を受け、法的に死亡したことになっている。

 歴代中央情報部長の中でも、金炯旭ほど強権を振るった者はいないだろう。彼は1963年に第4代目部長に就任してから六年半もの間、続々と人々を不法に逮捕連行しては拷問に掛け、無実の罪を着せては有罪に陥れ、甚だしくは処刑にまで追い込んだこともあった。
 中央情報部庁舎のあった”南山ナムサン”は恐怖政治の象徴となった。あまりの強権ぶりに「情報部にできないことは性転換くらいだ」と言わしめるほどであった。

 しかしその情報部長の権力があまりにも強すぎたため、朴正煕にとっても脅威となった。初代部長の金鍾泌キムジョンピルは”自意半、他意半25.16軍事クーデター後、朴正煕や金鍾泌は密かに政治への野心を抱き、創党のために動いていた。しかし、軍復帰を望む者たちからの反発を招き、政治資金を集めていた金鍾泌が朴正煕の“弾除け”となり、四大疑獄事件(証券疑獄、セナラ事件、ウォーカーヒル事件、パチンコ導入事件の総称。共和党創設のために、韓国電力株を証券市場に放出し、セナラ自動車からの取り分を上乗せさせたり、パチンコを導入するなどして資金を調達していた)を負って、巡回大使の名目で外遊を余儀なくされた。その時に発言した「自意半、他意半」という言葉は金鍾泌の名言とされ、語源とも言われている。自分の意志でもあり、組織あるいは上の者からの命でもあるという趣旨であるが、どちらかと言えば、外圧によることを多く含んだ言葉である。”で外遊を余儀なくされ、歴代部長の中でも強権を振るった金炯旭と、キレ者ゆえに打たれる杭となってしまった6代目部長の李厚洛イフラクは逃げるように故国を脱出せざるを得なかった。故国に帰れた李厚洛はまだマシだろう。
 自ら朴正煕と敵対する道を選んだ金炯旭は、おそらくは・・・・・客死した。


金炯旭


恐怖の中央情報部長・金炯旭

 金炯旭の別名は「空飛ぶトンカツ」「南山のイノシシ3「南山の熊」という異名もある。」「恐怖の三枚肉サムギョプサル」。智謀と策略に長け、「諸葛4諸葛亮(諸葛孔明)を指す曹操チェガルチョジョ」の異名を持つ李厚洛とは対照的に、彼は単純・無知・過激の象徴だ。

 金炯旭は1925年、現在の北朝鮮・黄海南道信川郡ファンヘナムドシンチョングンで生まれた。家は非常に貧しく、学歴は小学校を出た程度だった。
 戦時中は北京で日本軍にいたが、帰郷すると、その前歴のために共産党に迫害され、ソウルまで南下した。陸軍士官学校に入校する時に陸軍曹長だったため、第8期生は競争率が高かったにも関わらず将校となった。彼は同期生一千余名の中で、末端レベルの成績で卒業した。成績優秀な同期の金鍾泌と比べて出世で後れを取った。
 金炯旭は朝鮮戦争当時、東部戦線で戦った。8期生たちは大多数が下級将校だったために戦死したが、彼は九死に一生を得た。
 金炯旭は、江原道カンウォンド華川ファチョン付近で大隊長を務めていた時に、兵隊を使って木炭を焼いて売り、生計の足しにしていたため、宋堯讃ソンヨチャン第1軍司令官に摘発され、拘束されそうになったこともあった。

 金炯旭は陸軍中領5中佐に当たる階級の時に、金鍾泌らと共に5.16軍事クーデター61960年の4.19学生革命によって李承晩政権が崩壊し、韓国史上唯一の議院内閣制が誕生するが、張勉政権に不満を持った軍将校たちが1961年5月16日に軍事クーデターを起こした。当時陸軍少将だった朴正煕が中心となり、金鍾泌や金炯旭ら陸軍士官学校8期生が主に計画した。当時の韓国は貧困国であったために、民主主義の回復がかえって混乱をもたらしていた。また、張勉政権は閣僚を短期間で交代させたため、政策が一向に進まなかった。将校たちがクーデターを起こした背景には、李承晩政権時代の軍内の不正に対する整軍運動が進まない上に、朴正煕らが強制予備役編入対象になっていたことがあったと言われている。に参加し、国家再建最高会議の委員となった。

 1963年、金炯旭は第4代中央情報部長に就任した。彼は初代情報部長だった金鍾泌の人脈を情報部から追い出し、自身の基盤を作った。そして、不正な政治資金収集と選挙活動を行ない、盗聴・拉致・拷問などの暴力的な活動で中央情報部の権力を強大なものにし、恐怖政治の象徴を作り上げていった。

 情報部の悪名を轟かせた人民革命党事件71964年、革新系人士・言論人・大学教授・学生など41名を国家保安法違反容疑で拘束し、検察に圧力を掛けて強引に起訴させたが、2名のみが有罪となり、残りは全て不起訴となった。金炯旭自身が後に無謀な捜査だったことを認めている。、民主主義比較研究会事件81965年と1967年に、ソウル大学の教授と学生を中心とした学術研究会をスパイ容疑で逮捕し、有罪に追い込んだ事件。、東ベルリン事件9別名「東伯林事件」。1967年、西ヨーロッパに居住していた芸術家(音楽家・尹伊桑、画家・李應魯、詩人・千祥炳)や留学生など韓国人194名をスパイ容疑で中央情報部に連行した事件。中には北朝鮮大使館と接触したり北朝鮮を訪問した者もいたが、当時は北朝鮮の方が裕福であったため、食事を分け与えてもらう目的であって、スパイ事実は無かった。結局、外交問題もあり、死刑判決を受けた者も特赦された。、国民福祉会事件101968年、金鍾泌が起ち上げた「国民福祉研究会」の中心メンバーだった金龍泰・崔永斗・宋相南議員が共和党から除名処分を受けた。これに抗議して金鍾泌が政界を引退。ナンバー2的存在だった金鍾泌が三選改憲に反対し、朴正熙大統領の長期執権を阻んでいたことが背景にあった。金炯旭は金鍾泌と対立していた。、ヨーロッパスパイ操作事件111969年、東ベルリンと平壌を訪問した大学教授の朴櫓洙と国会議員の金圭南を中央情報部が不法に連行して拷問。検察までもがこれを黙認して起訴し、二人を死刑に追い込んだ事件。三選改憲に反対する金鍾泌に対する圧力が背景にあった。は金炯旭時代のものだ。

 甚だしくは、金炯旭は情報部内で私製爆弾まで造り、前任の情報部長・金在春キムジェチュンを袋叩きにさせた上に、爆殺まで企てていた。かつての同志だった金鍾泌にも危害を加えようとしていた。
 反面、彼は与党の大物人士に対しては控えめだった。強者におもねり弱者を虐げる男で、周囲からの評判は非常に悪かった。

 朴政権時代に強権を振るった金炯旭・李厚洛・朴鐘圭パクチョンギュは、いずれも不正にカネを集めた。その時の蓄財が、金炯旭ののちの亡命生活に役立つこととなった。

 韓亜ハナ運輸という会社を設立し、軍納の独占事業で大儲けをした元陸軍少将の林善河イムソナは、金炯旭に全財産を騙し取られてしまった。イムからの陳情書を読んだ朴大統領は、当時の情報部長・金桂元キムゲウォンに調査を命じたが、金炯旭の抵抗は凄まじく、「俺は閣下の弱みも握っている」と騒いだため、林善河には慰謝料3000万ウォンで手打ちにしてくれと頼むよりほかなかった。

 金炯旭は情報部長を退いた後に国会議員を務めていたが、カネの出所を怪しまれて、李厚洛率いる情報部から家宅捜索を受けた。朴正煕大統領との間に亀裂が入っていることを感じていた彼は、1973年にこっそりと米国に亡命した。皮肉なことに、同年末には李厚洛までもが単身で金浦キムポ空港を飛び立った。

 強権とは諸刃の剣だったのだ。


コリアゲート事件の余波

 朴正熙の独裁政権を支えるため、韓国中央情報部の活動は、国内の政治工作や反体制人士への弾圧だけではなく、海外にも渡っていた。コリアゲート事件もその一つであった。

 朴政権の反民主主義的独裁は米国の不信を招き、幾度となく駐韓米軍撤収の計画が打ち出されていた。
 しかし、常に北朝鮮という脅威を抱えていた韓国にとって、米軍の撤収は死活問題であった。

 朴政権は、対米議会工作の目標を立てた。それは以下のようなものであった。
 ・対韓軍事および経済援助の維持
 ・駐韓米軍の維持
 ・大共産圏への接近の抑制
 ・対韓世論の鎮静化

 1976年10月24日、『ワシントン・ポスト』がコリアゲート事件について大々的に報じた。

――韓国人実業家・朴東宣パクトンソンが朴正煕大統領の命令で、米上下院議員に50万~100万ドルの現金を含んだ金品を渡してロビー活動を行なっていた。
 CIA、FBI、NSA12国家安全保障局。米国防省の情報機関。、国務省、法務省が総動員で調査を開始。最大115名が関与し、50名余りが直接収賄したと見られる。

 1967年、朴東宣は米国からのコメの輸入取引代理権を得るため、リチャード・ハンナ(Richard T. Hanna)下院議員に賄賂を贈った。ハンナは金炯旭情報部長に頼んで、韓国が朴東宣を通じて米国からコメを買うように仕向けた。

 金炯旭は、朴東宣が朴大統領の親戚を名乗っていたことで調査した際、彼が米国の大物と親しいことを知って、以降は便宜を図ってやるなどして繋がりを持っていた。

 その後朴東宣は、金炯旭と対立していた朴鐘圭警護室長によって代理権を奪われ、暫くは青瓦臺チョンワデから遠ざけられたが、李厚洛情報部長の代になって再び代理権を取り戻した。

 更に、朴東宣はオットー・パスマン(Otto E. Passman)下院議員がコレクションしていた時計を高額で買い取った。

 この事件で、ハンナとパスマンが起訴され、米国側の中心人物だったハンナは有罪判決を受けた。

 コリアゲート事件の中心人物は朴東宣であったが、もう一人、ロビー活動に携わったとして追及された重要な脇役がいる。それが金漢祚キムハンジョだった。

 金漢祚は、渡米して化粧品会社を興した実業家だった。彼は陸英修ユクヨンス女史に化粧品を贈るなどして大統領夫妻と関係を持つようになった。
 彼は「白雪ペクソル作戦」と名付けられた韓国中央情報部のロビー工作に関わり、米国から調査を受ける羽目になった。

金載圭、運命の情報部長就任

 米国では反韓感情が沸き上がっていた。

 コリアゲート事件を鎮火させる意図で、ワシントンでの責任者だった梁斗源ヤンドゥウォン韓国中央情報部次長補が免職になると、駐米韓国大使館参事官の金相根キムサングンが、かつての上司だった金炯旭の力を借りて米国に亡命するという騒動が起こった。
 金相根は、実は韓国中央情報部員だった。梁斗源と繋がっていたことと、後任次長補の金龍煥キムヨンファンから嫌われていたことで、情報部からの召還命令が出されると不安に駆られてしまったのだ。

 事態収拾のために申稙秀シンジクス情報部長が更迭され、後任には金載圭が就いた。1976年12月のことだった。

金漢祚に拳銃を向けた金載圭

 これは、のちに朴正煕大統領に銃を向けた金載圭の人格を現すエピソードの一つである。

 1977年1月14日、中央情報部長に就任したばかりの金載圭は、帰国していた金漢祚を宮井洞クンジョンドン安家アンガ13韓国中央情報部の秘密私設。安全家屋の略。に呼び、二人きりで対面した。

 金載圭は朴大統領の指示で40万ドルを金漢祚に渡し、領収書を受け取った。その40万ドルは、金漢祚が米国でのロビー活動に使ったカネに対する返済金だった。

 金載圭がコリアゲートについての説明を求めると、金漢祚は面倒臭そうに答えた。

「簡単な話ですよ。ベトナム戦争以降、金日成キムイルソンが我々韓国を見下しています。その上、米国は軍撤収計画を立てているでしょう。米国の反戦ムードとともに韓国に対する世論も良くないので、(金日成は)この機に韓国を奇襲して水原スウォン前線まで確保してから協議に持ち込もうという魂胆だってことを金将軍14軍人出身の金載圭は中将で予備役に編入、退役したため、この肩書で呼ばれることがある。は御存知ないのですか。我々は金日成を防ぐため、米国の世論を変える作業を行なっていたのですよ」
「いや、それは分かっています。そうではなくて、コリアンロビーで接触した米国側の人物が誰なのか具体的に――」
「金将軍、それは今お話することは難しい。それに今、私はとても疲れていましてね……」
「ならば、その40万ドルはどこに使ったものなのですか?」

 金漢祚は、領収書を書かされたことで、朴大統領が金載圭部長を信用していないのではないかと考えた。その上、朴大統領からも、使い道については情報部に漏らすなと言われていた。40万ドルの使い道について、FBIから追われている立場でもあった。
 金漢祚が金載圭の慇懃な態度に卑屈さを感じて軽くあしらったこともわざわいとなった。彼はヨハン・カスパー・ラヴァーター(Johann Kaspar Lavater)1518世紀のスイスの思想家。改革派の牧師。観相学の祖として知られる。の言葉を引用した。

「彼にいかなる秘密も与えないでください。彼はその秘密を自身の私欲に使うでしょう16引用元は”Trust him not with your secrets, who, when left alone in your room, turns over your papers.(一人で部屋に残すと貴方の書き置きを探し当てて引っ張り出すような人を信用してはならない)”ではないかと思われる。

 その瞬間、金載圭は激昂し、指を突き付け怒声を上げた。

「おい、金漢祚! お前、俺を舐めてんのか。今後もそんな風に舐めた真似しやがったら、つまらんことになるから覚えとけ!」

 活劇が起こったような物音がしたため、隣りの部屋で待機していた尹鎰均ユンイルキュン次長補が飛び込んできた。その時には金載圭が、後に朴正煕大統領を撃ったワルサーPPKを金漢祚に向けていたという17金忠植著『実録KCIA―南山の部長たち』は尹鎰均からの視点で書かれており、この時「活劇が起こったような物音」「金漢祚の眼鏡が部屋の隅に転がっていた」とだけある。この記述では金載圭が金漢祚を殴打したかのように思えるが、金漢祚は自著『코리아게이트(コリアゲート)』で、金載圭に対抗するために自信で眼鏡を放り捨てたと述べている。

 いずれにしても金載圭は、金漢祚からはヤクザチンピラに豹変したかのように見えたし、尹鎰均からは目つきが正気ではなく、偶発的に爆発するような問題のある人物と捉えられた。


金炯旭のラストラリー

 金炯旭は米国で、暫くはゴルフに興じ、飲みに出歩き、読書三昧といった静かな生活を送っていた。一方で、心理的には荒んだ日々を過ごしていたようだ。ひがんだり、興奮して怒るなど、情緒不安定になっていた。その原因は強い郷愁にあったという。実際彼は、のちに執筆する回顧録でも故国に対する強い思いを訴えていた。

 1976年10月から、米国ではコリアゲート事件の報道が大々的に始まった。四年もの間、息をひそめて過ごしていた金炯旭の反撃も、ここから動き出した。それはロウソクの炎が尽きる時の、最後の輝きでもあった。

朴正煕と金載圭からの手紙

 金載圭が中央情報部長に就任してすぐに取り掛かった仕事は、コリアゲートの情報収集と、金炯旭に帰国を促すことだった。金載圭は計3回、金炯旭に宛てて、直筆で手紙を書き送っている。その手紙は金炯旭の回顧録によって公開されている。


金載圭から金炯旭に宛てた直筆の手紙


 朴正熙大統領自ら、金炯旭に宛てて親書を送っている。ソウルに帰ってくれば重いポストを用意するという甘言とともに。しかし金炯旭はそれらを無視し続けた。

 金炯旭と親しかった洪鍾哲ホンジョンチョル青瓦臺司正担当特別補佐官18軍人、政治家。在職時だった1974年に釣りをしていて、溺れた息子を助けようとして溺死している。よって洪鍾哲からの手紙は、金炯旭が亡命して間もない頃に来たということになる。も帰国を勧める手紙を送っていた。

 のちに命を縮める発端となった金炯旭自身による回顧録によると、高興門コフンムン19柳珍山系の野党議員。国会副議長を務めた。李哲承イチョルスン20右翼団体・反共活動家出身の野党政治家。新民党の代表を務めた。といった野党の国会議員も含め、白斗鎭ペクトゥジン21銀行理事から政治家になった。李承晩政権・朴正煕政権ともに国務総理を務めた。丁一權チョンイルクォン22李承晩政権時代に陸軍参謀総長、朴正煕政権時代に国務総理を務めた。殺害された鄭仁淑が産んだ子の父親と言われている。張坰淳チャンギョンスン23国会議員朴炳培パクピョンベ24警察出身の国会議員魯璡煥ノジナン25国会議員金東祚キムドンジョ26外相に当たる外務部長官を務めていた。韓丙起ハンビョンギ27国会議員、大使などを歴任。金炯旭の回顧録によると、表向きは国連副大使を務めながら、裏では米国にいるKCIA要員の総指揮を行なっていたという。・金鍾泌ら大物人士が次々と渡米し、説得のためにやって来たという。

金炯旭、フレイザー聴聞会で証言

 金炯旭は1977年6月と7月に、ニューヨーク・タイムズとの独占インタビューに答え、記者会見まで行ない、コリアゲートの内幕を語った。

 韓国系米国人ジャーナリストの文明子ムンミョンジャ28MBCや京郷新聞の米国特派員だったが、金大中拉致事件が中央情報部の工作であることを報道して生命の危険があったため、米国に亡命した。別名はジュリー・ムーン。と手を組み、1977年6月22日、米国下院によって構成されたフレイザー委員会の聴聞会に出席し、朴正煕維新体制下の事件の内幕を暴露した。
 7月11日には二回目の証言を行なった。

 金炯旭がフレイザー委員会で証言し、朴政権に反旗を翻したのは、本人の鬱屈した思いもあったが、米国の反韓世論が激化したことや、朴政権がFBIやCIAなどから調査対象になっていたからでもあった。

金炯旭、回顧録を出版

 朴正熙政権を倒すには、証言だけでは不十分と考えた金炯旭は、当時留学生だった金景梓キムギョンジェ29反体制学生運動を行ない、米国に亡命していた。筆名は朴思越。のちに国会議員となる。と共に回顧録30原題は『革命과偶像(革命と偶像)』。日本では『権力と陰謀』という書名で出版された(下記「参考文献」参照)。の執筆に没頭する。

 この回顧録には、東ベルリン事件・人民革命党事件・鄭仁淑チョンインスク殺害事件311970年、ソウルの高級料亭「仙雲閣」の従業員だった鄭仁淑が、車の中で銃撃されて死亡した事件。鄭仁淑の手帳には、朴正煕大統領始め、丁一權・朴鐘圭・李厚洛・金炯旭ら政権の中枢人物の名前と連絡先が記されていた。鄭仁淑には幼い息子がいたが、父親は丁一權ではないかと言われている。犯人は運転手を務めていた兄の鄭宗旭だと言われていたが、後年、彼はMBCのインタビューで、殺害は政府関係者によって行われたと主張した。など、朴政権にとって知られたくない不都合な内幕が次々と書かれていた。

 1977年秋、尹鎰均中央情報部次長補も金載圭部長の命で渡米し、直接金炯旭と対面して、回顧録出版取り消しの説得に掛かった。結局、数十万ドル32国情院の真実究明発展委員会の調査結果によると、50万ドル支払ったという。を支払う約束で、金炯旭は回顧録の原稿を引き渡すことに同意した。

 しかし金炯旭は、こっそり回顧録のコピーを手元に残していた。そしてそのコピーが周囲の人の手に渡り、日本の月刊誌『つくる』に要約されたものが掲載されてしまったのである。これには金炯旭自身が狼狽した様子を見せていたという。

 1979年9月、金炯旭は仲介者を通じて、回顧録の原稿を引き渡す代わりに、150万ドルと差し押さえられている自身の不動産、そして韓国旅券の発行を要求した。
 金載圭は、要求を全て受け入れるので旅券はニューヨークにある総領事館へ直接取りに行くように伝えた。しかし、治外法権の総領事館へ行くことに身の危険を感じた金炯旭は、一等書記官が自宅に直接旅券を持ってくるように重ねて要求した。

 これを電話で伝え聞いた金載圭は怒りを露わにした。
「私の言葉を信じられないのなら大韓民国政府を信じないということではないですか。金炯旭、あいつは少し痛めつけてやらないといけません」

金炯旭、仏パリで失踪

 1979年10月7日午後7時頃、金炯旭は凱旋門近くのカジノに現れたのを最後に姿を消した。

 彼は10月1日にエール・フランスの超音速旅客機コンコルドに乗って米国ニューヨークを発ち、フランス・パリに到着すると、超一流の「ホテル・リッツ」にチェックインした。

 ところが、長男が電話を掛けてきた7日午前には、金炯旭はシャンゼリゼ通りにある「ホテル・ウエストエンド」に移っていた。持病があった金炯旭は薬を飲む水を保管する冷蔵庫が必要だったが、リッツには備え付けの冷蔵庫が無かったために宿泊先を変えたのだろうというのが彼の家族の見方であったが、それにしても彼が泊まるにしては、ウエストエンドは質素であったという。身の危険がある事情もあり、セキュリティに乏しいホテルに泊まることもあり得なかった。

 彼は五日間の宿泊料金を前払いした上で、ウエストエンド405号室にチェックインしたが、ベッドに寝た痕跡が何日間も無かったため、ホテルがシャンゼリゼ地区警察署に通報した。

 旅行カバンもゴルフバッグも置きっ放しで、中身もそのまま残されていた。無くなっていたのは、小型のアタッシェケースと、バーバリーのレインコートだった。
 警戒心の強い金炯旭は、旅行の際は必ず行先と期間をメモして、カバンの中に入れておく習慣だったが、今回は残されていなかった。

 行方不明となった7日の朝、ホテルのメイドが4階エレベーターで、金炯旭が一人の韓国人とおぼしき人物と一緒にいたところを目撃している。そして、この人物と二人でカジノ「ル・グラン・セルクル」に行き、共に出てきたと見られている。金炯旭はこのカジノの常連で、連日連夜通ってはバカラ賭博に興じていたという。

 その一緒にいた人物は、李相烈イサンヨル駐仏韓国公使ではないかと言われている。李相烈は、金炯旭のかつての部下であり、フランスでの唯一の知り合いだったからだ。
 そして、無くなったアタッシェケースには回顧録の原稿が入っていたのではないかというのが、当時の推測であった。


誰が金炯旭を消したのか

 2005年、国家情報院33大統領直属の情報機関・秘密警察。中央情報部や国家安全企画部の後身に当たるが、軍事政権時代と比べて、規模や権限は大幅に縮小されている。が過去事件真実究明発展委員会を発足させた。これは、真相がうやむやのままで終わってしまった事件を再調査して究明する目的のもので、金大中キムデジュン拉致事件など7つの事件が対象となった。金炯旭失踪事件もそれに含まれていた。

国情院・真実究明発展委員会の調査結果

 事件関係者・計33名に対して、面談調査が行なわれた。

 調査結果によると、金炯旭失踪事件を指示した人物は金載圭中央情報部長であり、現地で主導したのは駐仏韓国公使の李相烈だったという。
 李相烈は、事件直前に二度も極秘裏に帰国して金載圭部長と会っており、事件直後にも金載圭に報告をするために帰国していた。

 李相烈は渡仏して、中央情報部の研修生2名シン・ヒョンジン(仮名)とイ・マンス(仮名)に殺害任務を指示した。シンは知人である東欧出身者2名に10万ドルで殺害を依頼した。

 凶器のうち、ソ連製7連発拳銃と毒針は中央情報部から受け取り、ナイフや紐はパリ市内の蚤の市で購入した。

 李相烈は金炯旭から「カネを貸して欲しい」と頼まれたことを機に、人を紹介すると言って金炯旭を呼び出した。

 現場には乗用車で向かった。シン・ヒョンジンが運転し、李相烈は助手席に、外国の協力者2名は後部座席に座っていた。

 金炯旭は待ち合わせ場所に先に来て待っていた。李相烈は後部座席の2名をカネを貸してくれる人だと紹介し、自分は夕方から用事があると言って、金炯旭を助手席に座らせ、その場から立ち去った。

 外国人の協力者が突然、金炯旭の後頭部を拳で数回殴って彼を気絶させた。車はパリ郊外まで移動して、人気のない場所で協力者が金炯旭の頭部に向けて消音銃を発射した。

 この時、どういう経緯か、協力者が拳銃を紛失した。しかし時間が無かったため、拳銃を見つけ出すことを諦めて、その場をすぐに立ち去った。
 落葉の時期だったため、金炯旭の遺体は落ち葉に隠されるだろうと、そのままにして置いた。

 その後、待機していたイ・マンスが協力者2名に10万ドルを渡して、明日にはフランスを発つように指示した。

 金炯旭の所持品のうち、パスポート・財布・時計・バーバリーのコートが持ち去られたが、パスポートと財布はシン・ヒョンジンから李相烈へ渡された。時計は途中、セーヌ川へ捨てられた。

 シン・ヒョンジンは帰国すると、金載圭中央情報部長に会って、金炯旭の殺害を報告した。拳銃を失くしたことも報告したが、金載圭は「ソ連製の銃だから、発見されても疑惑は北朝鮮に向くだろう」と、意に介さなかった。そして、現金が入った封筒二つをシン・ヒョンジンとイ・マンスのために渡した。

調査結果の謎

 証言によると、遺体は現場に放置され、落ち葉に埋まって隠されたという。しかし、フランス警察は4ヶ月に渡って捜索を行なったが、遺体を発見することはできなかった。そのため、金炯旭は養鶏場で生きたままミンチにされたという説や、韓国まで連行され、青瓦臺の地下で朴大統領あるいは車智澈チャジチョル警護室長の手によって射殺されたという説が広まった。

 結局、殺害の実行犯が外国人であったこと、金炯旭の遺体が発見されていないこと、凶器の拳銃を紛失したことなど、決定的な証拠が得られないまま、調査は多くの疑問点を残して終了した。

 事件を現地で指示したとされる李相烈は関与までは認めたものの、詳細を語ることについては拒否する姿勢を貫いた。彼は翌2006年に死亡した。その他の元情報部員たちも、核心部分になると口をつぐんだ。彼らは立場上、秘密を墓場まで持って行かねばならなかったからだ。

金載圭、失踪事件の関与を否定

 金載圭は朴正熙大統領暗殺事件で逮捕されたのち、弁護士との接見で、金炯旭失踪事件について全く知らないと言って、関与を否定した。

 陸軍保安司令部合同捜査本部の捜査結果発表においても、この失踪事件と金載圭との関連については触れられなかった。
 10.26事件当時に陸軍保安司令部合同捜査本部長だった全斗煥チョンドゥファンと捜査局長だった李鶴捧イハクポンは、国情院の真実究明発展委員会による面談調査で、金炯旭失踪事件についての尋問は行わなかったと話している。

 また、全斗煥による新軍部政権下で中央情報部が国家安全企画部に再編された後も、金炯旭失踪事件の中心人物であり金載圭の側近だった李相烈は、左遷されるどころか、高位のポストに就いていた。

 金炯旭の失踪について、朴正煕大統領の意思があったかどうかについては全く分かっていない。


参考資料

  • 金炯旭『権力と陰謀――元KCIA部長金炯旭の手記』合同出版 1980年 【
  • 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【
  • 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【
  • 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【
  • 김한조『코리아게이트』도서출판 열림원 1995年
  • 나무위키 namu.wiki 김형욱
  • 나무위키 namu.wiki 김형욱 실종 사건
  • 국정원 진실위 김형욱사건 중간발표 요약』연합뉴스 2005年5月26日