元来、対野党工作は中央情報部(KCIA)の担当であったが、車智澈警護室長が介入することで金載圭との軋轢を生んだ。
新民党総裁選挙工作の失敗
新民党総裁であった李哲承は穏健派であったが、対して金泳三は政権奪取も念頭に置いていた強硬派であり、彼が新民党新総裁に選出されることは朴正煕維新体制にとっては痛手であった。
新民党総裁選の候補者は、李哲承、金泳三、中道派の辛道煥、若手の李基澤、ほか金玉仙であった。
金載圭が図った工作は、辛道煥に立候補を辞退させて彼の票を李哲承に集約させることだった。
金載圭は若い時分に、辛道煥から就職の世話をしてもらったことがあった。その恩義で、軍人時代には辛道煥に夕食を御馳走するような関係だった。金載圭は丁重に立候補辞退を頼んだが、辛道煥からは「野党の党首を情報部が作るのか」と断られてしまった。
金載圭は次に、辛道煥から金泳三に目標を移すよりほかなかった。金載圭と金泳三は同じ金寧金氏一族という間柄だった。
金載圭は金泳三に直接会って、側近の不正調査書を見せて脅迫しながら、立候補を辞退するように迫ったが、金泳三からも断固として拒絶されてしまった1しかし金載圭はこの時の工作について、10.26事件後接見した弁護士に、不正についての不起訴を保証する条件で金泳三との間で合意に至ったと述べている。。
金大中の軟禁を解いた金載圭
新民党大会総裁選を前にして、李哲承派は韓一館で、金泳三派は雅敍園中華料理店でそれぞれ団結集会を開いた。
この直前、軟禁中の金大中までもが金泳三派の集会に参加するという情報が入った。情報部の曺成九外事局長は金載圭部長に、李哲承派が触発されて不利になるので金大中を参加させないように外出を禁止すべきだと進言した。しかし、金載圭はこれを無視した。
新民党総裁期間中は軟禁が強化されていたにも関わらず、この集会のあった29日夕方、金大中は警察から制止を受けることもなく、そのまま外出し、集会に参加することができた。
10.26事件一週間前、同じ金寧金氏の金東圭は、金載圭から打ち明けられていた。
「工作をしているうちに金泳三氏を推すべきだという考えに至った。だから金大中氏の軟禁をその日一日だけ解いてやったのだ」
そして金東圭の背中越しから、「今日この話をしたのは、誰かが後世にこの事実を証言しなければならないからだ」と話した。
一方で車智澈は、たびたび新民党の李哲承や辛道煥と接触していた。この時、朴正煕の金庫から出たカネをバラ撒いて懐柔を図っていたのだという。
車智澈は新民党の中では中道派と見られていた辛道煥が集めるだろうと見込んだ100票に狙いをつけたが、結局この票は割れてしまった上に2若い李基澤の票が上回ったことと、「打倒李哲承」の気勢が大きかったために辛道煥が動揺したという証言がある。、外部から金大中の支援もあり、辛道煥を上回っていた李基澤の票が金泳三に流れた。
こうして、1979年5.30新民党党大会で、金泳三が李哲承を破って新民党総裁に選出されたのである。
YH貿易事件
1979年8月、ソウル市内にある繊維製品・カツラ製造工場「YH貿易」の従業員250人が、輸出不振による業績悪化で解雇され3背景に第二次石油ショックがあり、この頃、韓国企業の倒産が相次いだ。、うち女性工員187人が解雇撤回や就業の斡旋を求めて、新民党舎に押し掛けた。
二日後、ソウル市警機動隊が新民党舎に突入し、座り込みをしていた女性工員たちを強制連行した。工員の一人である金景淑が墜落死し、多数が負傷した。
新民党は対策委員会を構成するが、与党・共和党と維新政友会は「労使紛争を利用して国民を扇動し、政変を企てるものだ」として与野党が国会で対立した。
金泳三総裁、職務停止処分を受ける
金泳三派と李哲承派が対立し、野党・新民党内部でも分裂が起こっていた。
反金泳三派の新民党議員3名が、先の総裁選挙で党員無資格者が投票していたため金泳三の総裁当選は無効であるという申請をソウル地方法院4韓国の裁判所に提出した。
同年9月8日、法院は、新民党総裁・金泳三に対して職務停止の仮処分を決定し、鄭雲甲全党大会議長を総裁職務代行に選任した。
金泳三が9月16日付『ニューヨーク・タイムズ』紙で、「米国は独裁政権を選ぶのか、民主主義を選ぶのか決断を下す時が来た」という発言をして朴政権を怒らせると、与党・共和党と維政会は国会に金泳三に対する懲戒処分を求め、10月4日に除名処分を可決した。この強硬可決には車智澈が関わっていたという。
この過程で、金載圭は金泳三と直接対面して譲歩を求めていたが、金泳三は拒絶した。
釜馬事態の発生と金載圭部長の視察
10月16日、金泳三の選挙区であった釜山市の釜山大学校庭に学生数百人が集まり、反体制集会が開かれた。
この学生運動はソウル市梨花女子大学にも波及した。
釜山の学生運動には市民も参加し始め、数千人規模に膨れ上がった。警察署・慶尚南道庁・税務署・言論機関など多数が襲撃され、警察車両が放火されるなどした。
17日夜、釜山に非常戒厳令が宣布された。戒厳令宣布を最終的に決定したのは朴正煕大統領であったが、車智澈警護室長が越権行為でソウルの特戦司令部空輸旅団を釜山に派遣させるなどしていた。
18日明け方、金載圭中央情報部長が釜山市内を視察した。視察の後、金載圭は内々に「あれはデモと言うより民乱」「民衆蜂起」と語っていた。この時を境に金載圭の態度には変化が見られたという。
18日には隣接する馬山市にもデモが拡大し、20日には馬山と昌原に衛戍令が発令された。
釜馬事態が起きた背景には、第二次オイルショックによる輸入原材料の高騰による工業の経営難により、中小企業が多かった釜山地域の景気が悪化したためという説がある一方で、釜山地域の景気が他地域と比べて悪化したという客観的データは無く、付加価値税5いわゆる消費税に相当するもので、1977年に導入された。税率10%。含む間接税の割合が増えることで、企業や高所得者には有利に、低所得者層には不利に働き、経済格差が拡がったことを起因とする最近の論がある6ナム・ジョンソク/ウォン・ドンピル『부마민주항쟁과 부산지역의 경제적 배경(釜馬民主抗争と釜山地域の経済的背景)』(下記「参考文献」よりリンク有り)。
反体制運動を主導した釜山・慶南大学の学生は経済科に属しており、経済状況に敏感だったことも関係していた。そこに、釜山地域を地盤とする金泳三が除名処分を受けたことが起爆剤となったとされている。
戒厳軍は学生・市民らを容赦なく殴打し、3名の死者と多数の重傷者が出た。中には頭蓋骨を骨折した者や、陰嚢が破裂した者もいた。1500人以上が連行され、うち多数が拷問を受けた。
内部分裂
新民党は鄭雲甲総裁代行体制となったが、金泳三除名処分に反発した新民党議員たちが一斉に辞職願を提出した。情報部はそれらを選別して受理するという説を流して、一部の議員たちを寝返らせていた。ところが、与党・共和党が辞職願を全て返還するという発表を行なったことで、金泳三派を認めるかのような印象を与え、これまで情報部に協力する姿勢を見せていた李哲承派の議員たちまでもが、優勢となった金泳三派に寝返った。鄭雲甲代行体制を進めてきた中央情報部としては、味方である筈の共和党から裏切られた形となってしまった。
新民党工作の失敗や釜馬事態を事前に察知できなかったことなどから金載圭中央情報部長は朴正煕大統領から叱責を受けていた。車智澈警護室長による越権行為や妨害に情報部は足を引っ張られていた。車智澈警護室長は政治工作に関わっても責任を取らなくて良い立場にあり、失敗の責任は情報部へ転嫁される始末だった。こうした状況下で、金載圭部長は鬱憤を募らせていくことになった。
参考資料
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 柴田穂『射殺――朴大統領の死』サンケイ出版 1980年 【】
- 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【】
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山と呼ばれた男たち』講談社 1994年 【】
- 남종석・원동필『부마민주항쟁과 부산지역의 경제적 배경』Redian 2019年