金載圭伝(三)出世街道の軍人時代

金載圭保安司令官
中央通訊社/国家文化資料庫(台湾)

恩人たち

朴正煕に可愛がられる

 金載圭キムジェギュは、朴正煕パクチョンヒ第5師団長の傍らで36連隊長として勤務していた。

 ある晩、朴正煕が宿舎で監察参謀と酒を呑んでいると、突如、金載圭が制服姿のまま現れ、「閣下、自分は今からソウルに参ります」と言い出した。師団長に事前の報告もなく勤務地を離脱するなどあり得ない事態だった。説明もなく飛び出して行こうとする金載圭を何とか宥めて話を聞くと、兵士らの不注意により火災を出し、幕舎と武器を焼失してしまったので、その責任を取って辞めると言うのだ。

「閣下、その間、御面倒をお掛けします。どうぞお元気で」

 金載圭の唐突な行動に、自殺でも図るのではないかと心配した朴正煕は、彼を連れ出して酒を呑ませるよう参謀に指示した。参謀は村の居酒屋で金載圭に夜通し呑ませると、先ほどの深刻な様子はどこへやら、彼は楽しそうに呑み明かしていた。

 金桂元キムゲウォン金鍾泌キムジョンピルによると、金載圭は朴正煕から「載圭チェギュ」と名前で呼ばれ、ことのほか可愛がられていたという。金載圭が将軍に進級し、司令官職に就いても、つい下の名前で呼ばれてしまうほどだった。個人的にも親しい関係にあったので、朴正煕は金桂元や金載圭とたびたび酒席を共にしていた。

 金桂元はまた、李鍾賛イジョンチャンも金載圭や朴正煕と特別な間柄だったと話している。

最も敬愛する人・李鍾賛

 李鍾賛は「軍人の中の軍人」と呼ばれ、韓国では、朴正煕も含めて多くの人々から尊敬されている軍人の一人だ。金載圭から最も尊敬されていた人物でもある。

 李鍾賛と金載圭の関係は6.25開戦当初までさかのぼる。1950年9月、李鍾賛は韓国軍3師団長に任命されるが、この時に3師団の人事参謀を務めていたのが金載圭だった。二人は3師団として、共に38度線を突破して北進した。

 1957年夏、金載圭大領に再び危機が訪れた。彼が3軍団副師団長を務めていた時、金相福キムサンボク師団長が不在時に1軍司令官・宋堯讃ソンヨチャン将軍が師団を電撃訪問したのである。

 本来、報告は師団の作戦参謀が行なうのだが、宋堯讃は「副師団長、君が報告を行ないたまえ。副師団長も状況を把握していなければならんからな」と金載圭に突如報告を指示したのだ。事前に何の準備もしていなかった金載圭の報告はしどろもどろで、質問に対してもロクに答えることができなかった。これを見た宋堯讃は激怒した。

「1軍麾下にこれほど無能な将校がいるとは! 24時間内に荷物をまとめて1軍を出ていけ!!」

 次期陸軍参謀総長と目されていた宋堯讃に誰も口を挟める者はいなかった。自身の務めではないことで面罵され自尊心を傷つけられた金載圭は、例によって逆上した。

「辞めればいいんだろ!!」

 彼は扉を蹴り飛ばして、出て行ってしまったのである。さすがの宋堯讃も金載圭のこの態度には言葉を失ったようだ。

 軍を去らねばならないと感じた金載圭は、かつての上官だった李鍾賛将軍を訪ねた。金載圭は李鍾賛に事の一部始終を話した。部下に優しい李鍾賛はこう諭した。

「君は宋将軍のためだけに服務している訳じゃないだろう。野戦軍に嫌気が差したのなら、陸軍本部や陸軍大学で勤務したらどうかね」

 思い直した金載圭は、その後三年余り李鍾賛の傍らで勤務し、多くのことを学び、そして助けを得た。

 軍人としての金載圭の能力に対する評価は決して高くなかった。彼は進級審査に何度も落ちていた。金載圭が星を付ける過程では、李鍾賛の力が大きかった。賛成と反対が同数であったため、最終的に審査委員長を務めていた李鍾賛の裁決によって金載圭の進級が決定したのだ。

 6.25当時、陸軍本部は戦時下で李鍾賛を大領から准将に進級させたが、彼は国民を護れないのだから階級を下げるべきだと考えて固辞し、大領の階級章を付けたまま戦った。李鍾賛はこのように清廉な人物だった。そんな彼が、決して有能とは言えなかった金載圭をこれほどまでに後押しした理由は何か。
 当時、軍内には不正腐敗が溢れていた。金載圭はそんな中で経費を着服するような真似をせず、苦しい生活を送っていた。金載圭もまた清廉な人物だったのだ。また、李鍾賛は金載圭を強い意志と信念を持った男だとも見ていたようだ。
 10.26事件後、金載圭被告の救済運動をしていた弁護士の姜信玉カンシンオクが訪れた時に、李鍾賛はこう言ったという。

「あの男、死に場所を見つけたんだな! 気概のある人だったが……」

命の恩人・金桂元

 金載圭が恩を仇で返した格好となった相手は朴正煕だけではない。金桂元に対しても同様だ。10.26事件当時、現場にいた金桂元青瓦臺チョンワデ秘書室長は事件に関連して逮捕拘束され、服役する羽目になった。彼は暗殺計画にも実行にも全く関わっていないのだが、釈放された後も年金を受給できず、現役時代の人間関係もほぼ途絶して不遇な後半生を送った。

 金桂元が鎭海チネ陸軍大学総長を務めていた時に副総長を務めていたのが金載圭だった。

 馬山マサンで海軍と合同訓練を行なった際の会食後の出来事であった。金載圭は酒に酔ったまま運転兵を押しのけて自身がハンドルを握り1オ・ソンヒョン著『비운의 장군 김재규(悲運の将軍 金載圭)』では、馬山の艦隊司令官が飲酒運転をし、同乗していた金載圭や妓生が被害に遭ったと書かれているが、この司令官の名前は記載されていない。また、現場に居合わせた金桂元も、この司令官の存在について言及していない。、断崖絶壁から転落する事故を起こしてしまったのだ。この事故で、金載圭含め同乗者が重傷を負い、妓生キセン1名が死亡した。
 事故に気づいた金桂元は自ら崖を降りて行き、出血して意識を失っている金載圭を背負って救出した。命の恩人となった金桂元は以来、金載圭とは兄弟のように親しい関係となり、家族ぐるみの付き合いを続けた。

朴正煕執権後、出世街道を走る

 1960年の4.19学生革命直後に金載圭は、李鍾賛、そして釜山プサン軍需基地司令官を務めていた朴正煕と三人で酒席を共にする機会があった。ソウルでデモ隊に発砲して多数の死傷者が発生した事件に憤慨し、夜を明かして議論した。

「銃剣は一体誰のためのものなのか。善良な学生たちを殺すために使うものではないだろう!」

 このような会話を交わした朴正煕が晩年「大統領であるこの私が発砲命令を下して誰が処罰できようか」と発言するのだから、金載圭が「大統領の神経がおかしくなった」と感じても無理からぬ話だった。

5.16軍事クーデター

 1961年5月16日、朴正煕少将を主体とする軍事クーデターが起こった。クーデター計画は金鍾泌中領はじめ陸軍士官学校8期生たちによって策定されていた。

 クーデターが起こった背景には以下のような事情があった。

張勉チャンミョン派と尹潽善ユンボソン派が激しく対立し、三度に及ぶ内閣改造によって政情が不安定だった
・当時の韓国は、経済的に北朝鮮にも大幅に遅れをとる貧困国だった
・不正を働く高位軍人を追放する整軍運動の挫折
・朝鮮戦争後、進級が停滞していることに対する下級将校たちの不満

 金載圭は朴正煕と陸軍士官学校同期生であったが、5.16軍事クーデターには参加していない。5.16当時、国防部総務課長だった金載圭は、クーデターに参加しなかったことで革命司令部に連行され調査を受けた。
 金載圭は、軍人は政治的に中立であるべきという李鍾賛の主張に強く影響を受けていた。

湖南肥料社長

 革命主体勢力と対立する立場ではなかった金載圭は釈放されると、「湖南ホナム2湖南は全羅道の別名肥料」の社長に任命された。

 湖南肥料とは、光州クァンジュの富豪だった李文煥イムナン3のちにアジア自動車工業を設立する。アジア自動車工業は1975年に起亜に買収された。80年代までは「アセア自動車」と呼ばれていた。が穀倉地帯である全羅南道羅州チョルラナムドナジュに建設した窒素肥料工場だ。これを革命政府が買収し、金載圭を現役将軍のまま社長として送り込んだのだ。

 金載圭は就任するや、遅々として進んでいなかった工場の建設を強行した。一日の労働時間を4時間延ばし、不誠実な仕事をした者は即刻解雇した。

 独身寮の建設では、彼は例によって火のような性格を見せた。寮の完成後、金載圭社長が視察を行なうと、何と頭がつかえるほど天井が低く造られていたのだ。設計ミスに憤慨した彼は、ツルハシを持ち出して、その天井を破壊してしまった。

 金載圭は監査を受けた必要経費すら使わず、私心なく工場建設に尽力した。軍隊式のやり方で反発も招いたが、工期を一年短縮して功を立てた。

 金載圭は、最高会議の決定で工場を引き渡さざるを得なかった李文煥前社長や辞めさせられた人たちに対して、かなり気を配ったようだ。アン・テファン課長らを復職させ、湖南肥料の設立者だった李文煥の功労を認定した。
 金載圭社長は、工場が完成してから最初の試作品を朴正煕最高会議議長と商工部長官、そして李文煥前社長に送った。否応なく湖南肥料を退かされた李文煥は心穏やかではなかったのだが、この時、金載圭に対して「思っていたよりも良い軍人だ」と好印象を持ち、これ以降、二人は強い絆を維持した。

 金載圭はこの頃、羅州で恵まれない子供たちへ教育活動をしていた朴準三パクチュンサムにも協力していた。湖南肥料内の総合病院で看護師長を務めていた金載圭の再従妹はとこキム・チャブンが、朴準三の家に下宿していたため、彼女を通じて、朴準三は金載圭に学校設立の協力を要請した。金載圭はこれを受諾し、軍に復帰したのちも資材を提供するなど、協力を続けた。

6.3事態で戒厳軍を指揮

 1963年9月に工場の竣工式を終えた金載圭は、第6師団長として軍に復帰した。6師団は首都ソウル近郊に位置し、政治及び軍事的に重要な部隊であった。この時、彼は軍服を脱いで民政に協力してくれという朴正煕からの誘いを断ったともいう。

 折しも、国交正常化のために、日本との会談が行なわれている時期であった。
 5.16で政権を担った国家再建最高会議が軍政から民政に移行し、与党・民主共和党として引き継がれた。当時、最貧国であった韓国を経済的に建て直すために莫大な資金が必要だった。それには、何としても条約の締結を強行しなければならなかった。
 この条約の締結は、日本に対して弱腰かつ拙速な外交であると、国民の間で反対運動が起こった。1964年5月30日のソウル大学生たちによる断食を皮切りに反対デモは他の大学にも飛び火し、6月3日には各大学の学生たちが街に繰り出しデモを行なった。これが「6.3事態」である。当時、高麗コリョ大学生だった後の大統領・李明博イミョンバクもデモを主導して拘束され、半年ほど服役している。

 朴正煕政権は、事態収拾のために戒厳令を宣布した。部隊の出動は夜間に行なわれ、市民らが朝目覚めた時には既に配置が完了し、バリケードが張られ、武装した兵士が立っている状況だった。
 金載圭も6師団を率いてソウルに進入。德壽宮トクスグンに指揮所を置き、光化門クァンファムンに向かって左側を陣取った。

 しかし、金載圭は師団を率いながら、この強硬的なやり方に不満を抱いていたようだ。通行禁止違反者を逮捕するに当たって、軍の動員を拒否したのだ。彼は、武力行使は慎重でなければならないという理由で、違反者の逮捕は警察が行なうべきだと主張した。これを聞いた閔耭植ミンギシク陸軍参謀総長は、師団長自ら命令違反だと叱責したが、朴正煕が、金載圭の主張にも一理あるとして不問に付したというのだ。

 金載圭は師団を駐留させている間に、兵士らに大学内の清掃をさせていた。暇を持て余す兵士たちを引き締めるためにも一石二鳥という訳だ。

 更に、時間を作って各界人士たちと会い、時局について意見を交わした。
 かつての教え子であり、国会議員を務めていた李萬燮イマンソプを呼んで、四大疑獄事件4証券疑獄・セナラ事件・ウォーカーヒル事件・パチンコ導入事件の総称。政治資金を集めていた金鍾泌が、共和党創設のために韓国電力株を証券市場に放出し、セナラ自動車からの取り分を上乗せさせたり、パチンコを導入するなどして資金を調達していた。についても話し合った。金載圭は、金鍾泌の不正について批判した。彼はのちに、10.26事件の最終陳述でも、四大疑獄事件については国民の財産権を侵害した非民主主義的な行為と痛烈に批判している。

尹必鏞とのパワーゲーム開戦

 1966年1月、金載圭は少将に進級し、6管区司令官となった。軍管区は後方地域での軍需および、その他支援を管理する機関であり、中でも首都圏に位置していた6管区は、他の管区と比しても重要な位置付けであった。

 1968年1月21日に、韓国現代史に残る大事件が起こった。「1.21事態」こと青瓦臺襲撃未遂事件、またの名を、襲撃部隊のうち唯一韓国内で生き残った男の名を取って「金新朝キムシンジョ事件」という。
 北朝鮮・第124部隊に所属する31名が朴正煕大統領暗殺を目的として青瓦臺を奇襲せんと休戦ラインを越えて侵入した。彼らは韓国軍26師団の制服で偽装していた。京畿道キョンギド坡州パジュの野山で林業を営む四兄弟に遭遇すると、「通報すれば一族皆殺しにする。成功すれば褒賞を受けられる」と脅迫した上で解放した。兄弟は帰宅して家族の無事を確認したのち、警察に通報。米軍と韓国軍にも報され、直ちに厳戒態勢となった。

 防諜部隊は、武装ゲリラの行軍速度を10kmと分析した。尹必鏞ユンピリョン防諜部隊長は、第6管区司令部にこの10kmの速度に合わせて埋伏線を張るように要請したが、通常の行軍速度4kmをはるかに超えていたために、6管区側はこの分析を信用しなかった。埋伏線を張った時には既に武装ゲリラに突破された後だった。結局、ゲリラは青瓦臺からわずか数百メートルの鍾路区チョンノグ洗劔亭セコムジョンまで到達してしまった。

 2週間に及ぶ銃撃戦の末、武装ゲリラ31名のうち29名を射殺、1名(金新朝)を逮捕した。残る1名は逃走したとも自爆したとも言われている52~3名が北朝鮮に逃げ延びたという説もある。。韓国側は軍人・警察官23名が殉職、民間人7名が犠牲となった。負傷者も52名に及んだ。

 尹必鏞防諜部隊長は埋伏線を突破された責任を6管区が負わなければならないと青瓦臺に直接報告したため、6管区は警告を受けた。この事件を機に、金載圭と尹必鏞の軋轢が始まった。

中京高校を設立

 この頃金載圭は、異動の多い軍人の子供たちが通えるようにという目的で学校を設立している。当時としては珍しい男女共学の高等学校だった。
 異動のたびに妹を転校させていたこと、父・金炯哲キムヒョンチョルが学校を設立していたことが大きく影響していたのは想像に難くない。

 1967年9月、中京チュンギョン学院設立の許可を得て、70年3月1日にはソウル市龍山区ヨンサング西氷庫ソビンゴドンに中京高等学校を開校した。学院の初代理事長は金桂元陸軍参謀総長であった。
 「中京」という名称は高麗コリョ時代の都市を由来としている。中京には外敵を防ぎ、多くの人材を輩出しているという歴史的背景があった。

 倫理教師のチョン・テイルによると、金載圭少将は1970年初頭に中京高校を訪れ、「自由民主主義は我々の生きる道」という文を残して行ったという。

 中京高等学校は10.26事件によって紆余曲折を経た。当初は私立高校であったが、10.26事件以降は新軍部の手に渡り、1981年からは公立高校となって、軍人の子女だけではなく、一般人の入学が可能となった。現在は龍山区二村洞イチョンドンに移転。各界の名士を多く輩出している名門校となっている。

陸軍保安司令官時代

 1968年2月に、金載圭は防諜部隊長に任命された。当時、防諜部隊は巷で悪名を轟かせていた。金載圭は防諜部隊のイメージ向上のため、大統領の裁可を得て、組織を「保安司令部」に改称し、本来の対共業務に限定させた。尹必鏞の息のかかった「ハナフェ6全斗煥や盧泰愚ら陸軍士官学校11期生を中心として、軍部内に結成された私組織。のちに12.12粛軍クーデターを起こす核となった。朴正煕・朴鐘圭・尹必鏞が実質的な後見者であった。」の人間も次々と排除した。同年10月、初代陸軍保安司令官に就任した。

 在任中は共産党工作員の検挙に功を上げて、年三回、大統領から表彰された。
 在日韓国人・徐勝ソスンらを拘束したのも金載圭率いる保安司令部だ。金載圭司令官は、野党を牽制するため、ソウル大学に留学中だった徐勝と徐俊植ソジュンシク兄弟をはじめ工作員10名を拘束した。徐勝は拷問捜査の過程で焼身自殺を図ったため、顔面に火傷を負ったまま出廷した。日本でも「救う会」が発足し、知られている事件である。

 金載圭は1969年4月には中将に進級している。

もう一人の尊敬する人物・鄭求暎

 長期執権のために改憲を必要としていた朴正煕大統領は、側近たちに工作を命じた。この時、金載圭は「四選不出馬」を朴大統領に約束させたという。

 元・民主共和党総裁の鄭求暎チョングヨンが改憲に反対して政界から退いた。
 車智澈チャジチョル議員が朴正熙大統領の親書を携えて、説得のために鄭求暎を訪れていた。そこへ金載圭保安司令官もやって来た。車智澈の非礼な態度に金載圭が怒り、二人は口論となった。

 鄭求暎は再三の説得攻勢にも応じず、反対の姿勢を貫いた。説得のために訪れていた金載圭は結局、「すべての人が賛成するよりは、一人か二人くらい反対者がいる方が良い」と鄭求暎を擁護する側に回った。

 元々、鄭求暎の息子が金載圭と陸士2期の同期生であるという縁を持っていたが、この件を機に、鄭求暎は李鍾賛と共に金載圭が最も尊敬する人物となった。

 1969年10月17日、三選改憲が成立した。

 ある時、鄭求暎は金載圭から接待を受けた。同行した反政府人士が金載圭との同席を嫌ったが、会った後は「なかなかの軍人だ」と気を良くしていたという。
 また、軍団長を務めていた頃の金載圭と虚心坦懐に話し合ったという鄭求暎の側近は、「その時も(金載圭からは)共和党政権に対する不満が読み取れた」と話した。

尹必鏞とパワーゲーム再開 

 1970年、ベトナム戦争から帰還した尹必鏞が首都警備司令官に就任した。

 尹必鏞は朴正煕政権時代に権勢を振るった軍人だ。彼は軍内私組織「ハナフェ」の代父テブ7「ゴッドファーザー」や「後見人」という意味としても知られている。
 彼は5.16主体勢力ではなかったが、朴正煕国家再建会議議長の秘書室長という経歴を持ち、たびたび朴大統領の相談役を務めていたため、政財界の人士たちが尹必鏞の自宅まで出向いて挨拶に行くほどであった。甚だしくは軍の上官までもが尹必鏞詣でをする始末で、金載圭はこの状況を憂い、激怒していた。

 1971年、金載圭保安司令官は保安部隊に首都警備司令部の電話を盗聴させていたが、その行為が発覚し、8月には保安部隊員が首警司の憲兵によって逮捕されている。

 この直後、金載圭が前方の第三軍団長に転任し、物理的距離ができたこともあり、尹必鏞との権力闘争はひとまず収拾した。

 絶大な権勢を振るった尹必鏞であったが、1973年にクーデター謀議の容疑を掛けられて失脚した。粛清されたのである。
 興味深いのは、罪人の身に落とされてしまった尹必鏞の苦境を、後になって金載圭が救ったことだ。
「ショックを受けた私の子供たちを気分転換させようと外国に送り出す時に、金載圭部長が閣下と議論して上手く取り計らってくれたことがある」と尹必鏞自身が話している。

参考文献