目撃者・沈守峰と申才順

 10.26朴正煕パクチョンヒ大統領暗殺現場を目撃した人物で今現在生存しているのは、酌婦として宮井洞クンジョンドンの晩餐会場に招待された二人の女性である。一人は当時から歌手として活躍しテレビにも出演していた沈守峰シムスボン。もう一人は当時モデルで女子大生だった申才順シンジェスン

 二人は事件後、重要な目撃証言者として法廷に引っ張り出された。当時、彼女たちの素顔は隠され、名前もそれぞれ成錦子ソンクムジャ鄭惠順チョンヘスン1孫今子と鄭惠仙という表記もある。どちらの名もハングル表記は一致しない。という仮名に置き換えられていた。しかし巷間では彼女たちの正体を暴こうと様々な情報や憶測が飛び交った。実際、歌手の沈守峰は有名人だったこともあってすぐに正体が明かされたようである。

 いずれにしても沈守峰と申才順の素顔は暴かれ、宮井洞での彼女たちの役割も、やもめの朴正煕大統領を慰労するためであることが明らかになった。この事件を機に運命を大きく翻弄された二人の女性はそれぞれ苦悩の道を歩むことになる。

その時、その女たち

 申才順は、事件前に薬水洞ヤクスドンにあるサロンのマダムから呼び出されて、マダムの自宅で中央情報部儀典課長の朴善浩パクソノを紹介された。これが”面接”であった。

 事件当日である26日午後5時にプラザホテルで朴善浩に拾われ、それから内資ネジャホテルのラウンジで沈守峰と待ち合わせた。
 沈守峰は予定時刻よりも30分遅刻してやって来た。ギターの弦が切れてしまうアクシデントに見舞われたためだ。

 二人は宮井洞へ到着すると、待機室で簡単な礼儀作法を伝授され、本日のことを口外しないという誓約書に署名させられた。

 オンドルのある宴席に入ると、二人はそれぞれ朴正煕大統領の両隣りに腰掛けた。申才順は金載圭キムジェギュ中央情報部長の向かい側だった。
 大統領は申才順に「可愛いね。名前は? 歳はいくつかな?」と声を掛けた。また、沈守峰には本貫を尋ねた。沈守峰が「青松沈チョンソンシム氏ですが、故郷は忠清道チュンチョンドです」と答えると、大統領は「亡くなった(沈宜煥シムウィファン)総務処長官と同じじゃないか」と言った。

 沈守峰はギターを取りに行ってから、『その時、その人』『涙に濡れた豆満江』などを歌った。
 過去にも呼ばれたことがある沈守峰は今回で三度目の参席だったが、彼女の目からは、金載圭の表情が今までになく沈鬱に見えた。

 シムは次の歌い手に車智澈チャジチョル警護室長を指名した。車室長は『トラジ』や『旅人の悲しみ』を歌った。

 金載圭はたびたび中座していた。

 車智澈は次の歌い手に申才順を指名した。シンは『사랑해 당신을(愛する あなたを)』を歌い始めたが、音程が外れて沈が伴奏し直す羽目になった。

 金載圭が最初に車智澈警護室長に向かって発砲したのは、「イェーイ、イェーイ、イェー…」と申才順に合わせて大統領も一緒に歌っている時だった。
 金載圭は「こんな虫けらのような奴と一緒に政治ができますか!?」と言って発砲したと言われている2金載圭自身も法廷でこのような陳述をした。
 その瞬間に朴大統領が「何をしている!」と叫んだ。金載圭は大統領に向けて発砲した。

「閣下、大丈夫ですか!?」という女性たちの問いかけに、胸部を撃たれた朴正煕は答えた。
「私は大丈夫だ」
 これが朴正煕の最期の言葉だった。

 沈守峰からも申才順からも、銃撃時の金載圭は目つきが正気ではないように見えた。

 二時間ほど経ってから朴善浩儀典課長が迎えに来た。朴課長は二人にそれぞれ20万ウォン分の小切手が入った封筒を渡し、「今日あったことは口外しないように」と念を押して帰宅させた。
 彼女たちは大統領の返り血を浴びたままだった。

事件当時の沈守峰(左)と申才順

 その後、二人は合同捜査本部の取り調べを受けるが、証言には圧力が加わった。申才順の証言によると、それは洗脳に近かったという。

そこに彼女がいたね

 1957年生まれの申才順は、事件当時22歳。漢陽ハニャン大学演劇科3年の女子大生の身ながら、彼女はこの時すでに離婚歴があり、一人娘を持つシングルマザーだった。女優志望だったが、事件に巻き込まれたことで生活を脅かされ、米国に移住した。

 申才順は1994年に回顧録『그 곳에 그녀가 있었네クゴセクニョガイッソンネ(そこに彼女がいたね)』を出版した。事件現場にいた話題の女性が赤裸々に体験談を披露した本だけに、8月8日の初版からその月の15日には既に5版を重ねていた。

 大統領の晩餐に招待され、緊張を紛らわせるために出された食事の品目を数えていたことや、壊滅的なまでの音痴で上手く歌えずに困惑していた状況などを比較的素直に著している。車智澈を戦車タンク金桂元キムゲウォンを国民学校3今の初等学校。日本の小学校に当たる。の校長先生に喩えていた。

 また、申才順は調査を受けていた西氷庫ソビンゴで金載圭に出くわしたともいう。

その時、その歌手

 申才順が回顧録を出版した同じ年の12月に、沈守峰も回顧録『사랑밖엔 난 몰라サランパッケンナンモルラ(愛以外には私は知らない)』を出版した。この書名は彼女の1987年のヒット曲名から来ている。

たびたび”大行事”に呼ばれた歌手

 沈守峰は1955年生まれ4生年については諸説ある模様。本名は沈玟卿シムミンギョン

『大学歌謡祭』という番組で歌った自作曲『그때 그 사람クテクサラム(その時、その人)』がヒットしている最中に宮井洞に招かれ、朴正煕大統領の最期を目撃することになるのだが、彼女はそれまでも二度大統領の晩餐に招かれて歌を披露しており、情報部や警護室の職員とも顔見知りだった。射撃の趣味を持つ沈守峰は、この事件で死亡した安載松アンジェソン警護室副処長とも泰陵テルン射撃場で顔を合わせていたことがあった。

 回顧録の冒頭には、マスコミに対する不信感と、赤裸々に告白することへの抵抗を臭わせる。そして、同じ年に一足早く回顧録を出版した申才順への対抗意識もにじませている。
 この本では、事件当時の慌てふためく申才順の滑稽さを強調したり、現場検証での彼女の言動を戒めるなど、申才順を貶め、自身を美化する傾向がある。

 モデルを務めるだけあって、申才順は長身で美貌の女性だった。容姿を比較され、「大行事では大統領との間に衝立をした上で歌わされた」「横を向いて歌うように言われた」などと酷な噂を流されたが、沈守峰自身は「大統領がそんな失礼なことをするはずがない」と否定している。

その時、その証言

 沈守峰は著書で、それまで調査結果として報じられてきたことを全面的に覆す発言をした。

 金載圭の証言によれば、晩餐の席で政治談義が行なわれている最中に金載圭が隣りの金桂元の腕をたたいて語りかけた後、車智澈に向かって「この虫けらのような奴」と言って発砲したというのだが、沈守峰は「金載圭は嘘をついている。その時は大統領との対話も金桂元に対する言葉も無く、歌の最中に金載圭が発砲したのだ」と主張した。そして「申才順までもが金載圭の虚偽の陳述に同調するようなことを書いている」と語り、極度に不信感を示している。

のちの沈守峰と申才順 ©朝鮮日報

 1995年に韓国MBCで放送された実録政治ドラマ『제4공화국チェサコンファグク(第4共和国)』では、実際に撮影現場に立ち会った沈守峰の主張が採用されており、金載圭が発砲時に車智澈に向かって発した台詞は「이 새끼 너무 건방져イセキノムコンバンジョ!(このガキ、生意気だ)5著書内では「짜식 넌 너무 건방져!」と書かれてはいるが、沈守峰自身、「이 새끼」だったのか「짜식」だったのかは、はっきり覚えていないという。いずれにしても「このガキ、お前は生意気なんだよ」という意味である。」であった。

 沈守峰は、著書の中では全般に金載圭に対しては否定的で、彼が法廷で民主主義を持ち上げて自身の行動を正当化したことには大変驚いたと書いている。また、金載圭の権威主義や好色などを臭わせる点についても言及している。一方で、世間での嫌われ者・車智澈警護室長については好意的に書いた。

沈守峰がドキュメンタリー番組で新証言

 2005年5月29日に放送されたMBCのドキュメンタリー番組『이제는 말할 수 있다イジェヌンマラルスイッタ(今は話せる)/10.26궁정동 사람들クンジョンドンサラムドゥル(10.26宮井洞の人々)』で、沈守峰は新たな証言をしている。

「晩餐で口論が起こり、険悪なムードだったとされてきましたが、実際はそうではなく、和やかに進行していました。でもその中で、金載圭部長だけは押し黙って深刻な表情をしていました。いつもなら挨拶を交わすのに、その日はありませんでした」

 沈守峰の新証言は、金載圭が激昂して突発的に犯行に及んだのではなく、当初から大統領暗殺を計画していたことを臭わせた。

 また彼女は、「沈守峰の証言はころころ変わって信用できない」と言われている点についても、捜査機関に脅されて真実を話せなかったと弁明している。

申才順も過去の証言を否定

 朴正熙の伝記を著した趙甲濟チョガプチェは申才順について「宮井洞事件の現場目撃者の中で最も記憶が鮮明で証言がブレない人物」と評したが、その申才順までも、2011年の中央日報によるインタビューで自身の過去の証言を否定することになった。

 彼女は沈守峰の証言に同調するように、金載圭の「この虫けらのような奴」という発言は合同捜査本部によって強制されたと話す。
 一方で、申才順自身が混乱し、何が真実なのか分からなくなったとも話している。

 いずれにせよこの発言で、沈守峰だけではなく、申才順の証言も揺らいでいることになる。

 とはいえ、申才順はこのインタビューでも朴正煕大統領の最期は毅然としていてカリスマに溢れていたと述べており、その点においては揺らぐことがなかった。

その後、その人

 申才順は沈守峰の勧めで教会に通うようになったと話しており、二人は交流を持っていることが分かった。

 申才順には父親が異なる二人の娘がおり、今では三人の孫もいるという。

 沈守峰は10.26事件の影響で歌手活動が制限される時期もあったが、その後もヒット曲を生み出し、名歌手として活動している。

宮井洞の晩餐で歌われた「その時、その人」

 10.26事件当時、宮井洞の晩餐で歌われた沈守峰のヒット曲『그때 그 사람(その時、その人)』は後々まで話題をさらった。

 2005年に制作された林常樹イムサンス監督の映画『ユゴ 大統領有故』は10.26事件を題材にしており、原題を『그때 그사람들クテクサラムドゥル(その時、その人々)』という。これは言うまでもなく、沈守峰の曲『그 때 그 사람』から来たものである。

 なお、『그때 그 사람』は、日本の歌謡曲『夢は夜ひらく』(1966年/作曲・曽根幸明)にメロディがよく似ているため、盗作ではないかとの疑惑がある。


参考文献