車智澈伝(下)奸臣と呼ばれた警護室長

運命の警護室長就任

 1974年8月15日、光復節クァンボクチョルの記念式典行事で、在日韓国人・文世光ムンセグァンが朴正煕大統領を狙撃し、警護室職員との間で銃撃戦となり、陸英修女史が被弾して死亡した。事件の責任を取って朴鐘圭警護室長が辞任し、その後任の警護室長となったのが車智澈だった。
 5.16クーデターの時、朴正煕少将の右側に立っていた朴鐘圭から、左側に立っていた車智澈に交代となったのである。

 朴正熙は、不遇な家庭環境や陸士試験に失敗するなど挫折感を味わいながらも這い上がってきた車智澈を「智澈チチョリ」と名前で呼ぶほど可愛がっていた。初婚に失敗したという苦い経験にも共感していた1朴正煕は、親が決めた女性・金浩南と結婚して一女を儲けたが、のちに離婚している。

 陸英修の死後、朴正煕は側近に親しく気安い間柄の者を選ぶようになった。
 1976年には陸軍士官学校同期で同郷の金載圭を、78年には陸軍参謀総長出身で、政治も経済も分からないという金桂元を「話し相手だけしてくれればいい」という理由で秘書室長に据えた。

 四六時中大統領の傍に付き従う警護室長というポストに就任した車智澈――奸臣の誕生であった。

傲慢不遜と越権行為

 車智澈は、警護室長に就任すると、まず前任の警護室長だった朴鐘圭の人脈を警護室から一掃し、自身の人脈で固めた。
 かつて5.16クーデターでは同志だった朴鐘圭と車智澈であったが、朴鐘圭は車智澈を高く買っておらず、次期警護室長として推薦しなかったからだ。

部下になった将軍

 青瓦臺警護室長の格付けは長官級と次官級を行き来している。
 車智澈警護室長の格付けは長官級に上がっており、現役の陸軍中将が警護室の次長に、准将が次長補に任命された。将軍が、中領で退役した民間人の上司に挙手敬礼しなければならない立場に置かれた。
 法改正までなされ、警護室には非常時に首都警備司令部も指揮できるほどの権限が与えられた。

 車智澈警護室長は1975年から毎週金曜日に、「大統領閣下の命を守る警護部隊の団結と士気を高めるため」という名目で、首都警備司令部警備団・空輸団・警察部隊を集めて「警護部隊査閲式」を行なわせた。
 指揮は警護室作戦次長補が務め、全斗煥や盧泰愚ノテウも就いたことがあった。仰々しくファンファーレを鳴らし、盛大に行進や捧げつつが行なわれ、車智澈は”かしら”として大統領のごとく振舞った。
 政権の大物人士たちをことごとく招待しては、自慢の査閲式を見せびらかした。金載圭ですら出席したほどであった。
 唯一、招待を受けても理由を付けて来なかった人物は元秘書室長の金正濂キムジョンニョムくらいだった。

 金桂元の証言によると、車智澈は朴大統領とのゴルフの場でも、白斗鎮ペクトゥジン国会議長がシャワー室からすぐに出てこないので、「早く出て来なさい。早く! 何やってるんですか!」と扉を叩いて急かした上に、「この年寄りが! 何ぐずぐずやってるんだ。年寄りはさっさとくたばっちまえ!」と捨て台詞を吐いていたという。

 

全斗煥との関係

 車智澈と全斗煥には浅からぬ縁があった。二人は空輸団にいた青年時代に知り合った。

 車智澈は陸軍士官学校の試験に落ちたが、全斗煥は四年制の正規陸士1期生と言われる陸軍士官学校11期生出身であり、対照的な立場だった。
 その上、二人は10.26事件を機に運命が分かれた。
 車智澈は45歳になる手前の若さで命を落とし、全斗煥は事件の捜査を担当し、12.12粛軍クーデターを起こして実権を握り、大統領となった。

 車智澈は米軍基地での訓練生時代に危うく退校させられるところを助けられたことで、全斗煥には好意を持って接していた。厳しい訓練をやり遂げた最初の韓国軍将校同士という共鳴と尊敬の念があった。普段はあまり笑わない車智澈が、全斗煥を迎える時は明るい笑顔を見せたという。

 車智澈が警護室長を務めている時、首都警備司令部にいた全斗煥も青瓦臺の警護を担当していたので、全斗煥の弟の全敬煥チョンギョンファンは、兄の口利きで警護室の職員になることができた。

 軍の後輩たちは昇進すると、全斗煥のもとに挨拶に行ったが、全斗煥は車智澈警護室長のところにも彼らを挨拶に行かせていた。

 車智澈は、星を付けた2将軍になるという意味。将官の階級章が☆型のため。者には金一封のほかにも指揮棒を贈呈していた。その中で、唯一将官ではなく大領で指揮棒を贈られた者がいた。
 くだんの彼が挨拶に来た時に、車智澈が金一封を持って来させようとすると、肝の太いその彼――大領は「金一封よりも室長どのの指揮棒をいただく方が光栄です」と言ってのけたので、車智澈は少し驚いた様子を見せたが、すぐに笑って、金一封と指揮棒の両方を与えてくれたという。

盧泰愚(左端)、車智澈(左から二番目)、全斗煥(右端)

 全斗煥は警護室作戦次長補として、車智澈警護室長を上司として仰ぐ立場であったが、一方で、正規陸士出身者としての矜持も忘れなかった。車智澈は11期生たちに劣等感を抱いてはいたものの、侮ることはなく、神経を使っていた。
 車智澈は配下に、陸士出身者と非陸士出身者を交互に置いた。

金載圭中央情報部長を妨害

 10.26事件当時に秘書室長だった金桂元の証言によると、金載圭中央情報部長が大統領への報告のために青瓦臺にやって来ると、正門前で警護室員が警護室長に連絡して通過させて良いか指示を仰ぎ、「閣下は不在だ」と伝えては足止めを食らわせていたという。酷い時には情報部長の車が半日も停車していることがあったという話もある3一方で、青瓦臺のシステム上、警護室長が情報部長の報告を妨害するなどあり得ないという反論もある。

 いずれにせよ、金載圭中情部長が大統領に報告するより先に、同じ報告を車智澈警護室長が既に終えているということが、しばしばあったようだ。警護室長は常に大統領の居所を知っているため、直接報告するなら情報部長よりも早いという利点があった。
 大統領と共に食事をしている時に金載圭部長が報告をすると、車智澈室長が異見を差し挟むこともあった。

 車智澈から情報部長に連絡する時も、職員に電話を掛けさせ、先に金載圭が電話口に出るのを待ってから、自分が電話に出るという非礼な振る舞いをした。これは他の高官に対しても同様であった。

 前任の朴鐘圭警護室長の時代から、「南山vs北岳山プガクサン」と呼ばれるように、中央情報部長と警護室長は権力闘争を繰り広げていた。

 車智澈警護室長は情報部の対新民党政治工作も妨害した。警護室は工作を行なって失敗したところで責任を取らなくても良い立場であることを利用した。政治的に事が上手く運ぶかどうかよりも、朴大統領の”お気持ち”に沿うことが重要だった。

 朴正熙大統領は李圭光イギュグァン4長兄の李圭東は全斗煥の妻・李順子の父に当たる。李圭光は全斗煥政権時代に起きた張玲子・李哲煕事件に巻き込まれ、拘束されたことがある。を中心とする私設情報隊を持っていた。李圭光は権力者たちの不正調査を秘密裏に行っていた。車智澈は李圭光への連絡係も務めていたため、大統領しか知りえない情報にも深く関わっていた。

過剰警護

 1978年末頃から、朴正煕大統領は、長官たちと会わずに、車智澈警護室長と二人だけで過ごすことが増えていた。
 長官が大統領に会おうとしても、車智澈警護室長に嫌われれば妨害されて会うことができなかった。朴正煕自身が、長官が大統領に会えないことを驚いていたという。

 あまりの権勢に、車智澈は「副大統領閣下」と揶揄されるまでになっていた。皇帝の目を眩ませる宦官さながらであった。

丸腰の警護室長

 朴大統領の行く先々には、百メートルごとに警護員が立ち並んでいた。
 その様子を見た東日貿易の社長・久保正雄5根本七保子(デヴィ夫人)をインドネシアのスカルノ大統領に紹介した人物。金鍾泌キムジョンピルに耳打ちした。
「朴正煕大統領はそろそろおしまいです。インドネシアのスカルノ政権の末期とそっくりです」

 10.26事件が起こる数ヶ月前から、車智澈警護室長は”大行事”の際には拳銃を携帯しなくなった。副官の李錫雨イソグが拳銃を持って行くように進言しても、車智澈は応じなかった。酒席では上着を脱ぎ、拳銃が目に入るため、朴大統領がそれを嫌がったのだという。

 警護室長が丸腰のまま、10.26を迎えたのである。

トイレに逃げ込んだ警護室長

 10.26事件当時の晩餐の席上でも、車智澈警護室長は金載圭情報部長を煽るような発言を繰り返した。朴正煕大統領が金載圭を責めれば、それに追随した。

 釜馬プマ事態の話題が出た時、車智澈警護室長は驚くべき発言をしている。以下は金載圭の法廷での証言。

金載圭「このような問題に、車智澈警護室長のごとき人間は、『カンボジアでは300万もの人間を犠牲にしたのだから、我々が100万や200万人犠牲にしたところで何の問題があるんだ』という話をしました」

 車智澈は、10.26事件発生直前の晩餐の席上でも同様に、「ガキども、なめた真似しやがったら新民党だろうが学生だろうが戦車でサッと片付けてやる」と発言していたという6これら二つの発言の時期については、資料によって前後している。

 金載圭は、大統領よりも先に車智澈に向けて発砲した。その時に「こんな虫ケラのような奴と一緒に政治ができますか!」と言って引き金を引いたとも言われているが、その証言は後に揺らいでいる。

 車智澈が今日こんにちまで批判の的であり続けるのは、10.26事件当時の挙動が、大統領の警護を担う責任者としてあまりにもお粗末だったからだ。

 金載圭が撃った一発目は車智澈の右手首に被弾した。朴正煕よりも先に銃撃を受けたという事情があるにせよ、彼は「金部長、どうした、どうしたんだ!?」と叫びながら、真っ先にトイレに逃げ込んでしまったのである。
 空輸団時代に命懸けの訓練を受けた男も、自身に銃を向けられれば冷静ではいられなかったのだろう。彼は金載圭が大統領に対して、次にどのような行動を取ったかも満足に見届けられる状況にはなかった。大統領が胸部に被弾し、金載圭が部屋から出て行った後も、丸腰だった車智澈には警護員を呼び続けるほかに為すすべがなかったのだ。

 車智澈が助けを呼ぶために部屋から出ようとしたところ、ちょうど朴善浩パクソノから銃を借りて戻って来た金載圭とばったり鉢合わせしてしまった。車智澈は棚で防御しようとしたが、金載圭は躊躇なく発砲した。この時の被弾が致命傷となった。

車智澈の亡骸

 側近は、亡くなった車智澈の様子について、次のように語った。

「銃創を数えてみると、4発でした。腕と肩は金載圭に撃たれたもので、腹の2発は確認射殺を受けたものでしょう。大の字で横たわっていて、眼は見開いていました。瞼を閉じさせようと手で撫でたのですが、亡くなる瞬間に眼に力を入れたのか、瞼がまた開くのです。二度目、押さえたら眼を閉じました。眼を閉じると顔の表情が穏やかでした。何と言うか、生前に車室長が祈祷する時の表情でしたよ」

【閲覧注意】現場に残された車智澈の遺体と手首の銃創画像

取り消された警護室葬

 車智澈警護室長と警護室職員4名の遺体がソウル大病院の霊安室へ移されたのは、死亡して約20時間が経過した27日午後3時頃だった。

 妻と三人の幼い娘がいるだけだった車智澈には葬儀を執り行なってくれる男性の身内がいなかったため、喪主は車智澈に長年仕えた側近が務めた。異母兄弟とはほぼ絶縁状態だったからだ。

 車智澈の遺影の前には、彼が大切にしていた皮革製の短い指揮棒と、毎日読んでいた聖書が置かれ、側近が隣りに菊を供えた。しかし、五日葬までの間に誰一人として弔花を贈ってくる者はいなかったという。

国立墓地埋葬に反対の声

 27日午後、青瓦臺警護室では、李在田イジェジョン警護室次長の主催で、亡くなった車室長を含めた警護官5名の葬儀について会議が行なわれた。
 当初は、李在田警護室次長を委員長とし、金復東キムボクトン作戦次長補を副委員長とする葬儀委員会を発足させ、殉職という形で警護室葬を執り行なう予定でいた。出棺場所をソウル大病院とし、合同永訣式を30日午前11時に銅雀洞トンジャクトンにある国立墓地顕出塔前で行なう旨の訃告が28日付けの新聞に掲載された。
 ところが、訃告掲載直後に李在田次長が戒厳司令部に呼び出され、戒厳司令官である鄭昇和チョンスンファ陸軍参謀総長から、警護室葬を取りやめるように申し渡されたのだ。
 朴正熙大統領を死なせてしまった連中を国立墓地に埋葬するなという抗議電話が殺到したというのである。
 李次長は「中央情報部の管轄下での事態で、不可抗力だった」と弁解したものの、世論には抗えず、結局個別に葬儀を行うよりほかなかった。

紆余曲折を経た車智澈の埋葬

 父親の車氏姓を名乗っているものの、父方の親族と疎遠になっていた車智澈には、入るべき祖先の墓が無いという問題があった。

 車智澈にはいわゆる種違いの氏姓を持つ三人の姉がいた。車智澈にとって、ほとんど疎遠になっていた多くの兄弟姉きょうだいの中では身近に付き合いのある姉たちだった。このうち、次姉と三姉が永楽ヨンナク教会に通う敬虔な信者で、勧士7伝道を任務とする教職を務めていた関係で、朴朝俊パクチョジュン牧師に教会の敷地内の公園墓地に弟の埋葬を願い出た。
 ところが、教会内ではまたしても反対の意見が噴出し、議論が巻き起こった。車智澈は元々永楽教会に在籍していた訳ではなかった。その上朴牧師は、過去に維新体制を批判したこともある立場だった。宗教的信念を持っていた朴牧師は、「その人がどのような職務に就いていたかは、主の御前では全く問題にならない」と言って、車智澈の埋葬を快く許諾した。朴牧師は教会内でも高い地位にいたために受け入れは実現したが、反対勢力からは少なからず排斥行為を受けることになった。

 車智澈は慎ましやかな家族葬で見送られ、京畿道渼金市ミグムシにある永楽教会公園墓地に埋葬された。墓前には「車智澈博士之墓」と刻まれた石碑が建てられた。

評価

 朴正熙や金載圭には、それぞれに肯定的意見と否定的意見がある。

 朴正熙は、貧困国を経済的に発展させて近代化を進めた功績が保守派を中心に支持されている。金載圭には、民主主義回復を唱えた法廷での陳述に心を打たれた人や、崔太敏チェテミンの不正を追及したことが崔順実チェスンシルゲートで再評価され、”義士”と崇め奉る人がいる。しかし、車智澈に対しては、どの方面からも否定的意見しか出て来ていない。

 車智澈は今日こんにちまで、皇帝の目を眩ませる宦官のような存在として見られている。彼は、自身の好き嫌いで高官たちの大統領への謁見をことごとく妨害した。朴正煕自身も、晩年は鋭敏な政治的感覚を失い、車智澈の専横を野放しにしていた。車智澈による大統領と忠臣の離間策は、カルトが家族をバラバラに引き離すようなものであり、朴正煕が車智澈を好き放題にさせる様は、猛犬をしつけないまま放し飼いにしているようなものであった8朴正煕が飼育していた珍島犬が車智澈を威嚇したり、大統領の女性秘書の尻に嚙みついて怪我を負わせたことがあった。

 しかし何よりも車智澈の評価を絶対的に失墜させているのは、彼が青瓦臺警護室長という大統領の警護責任者でありながら、大統領が銃撃された場で自身がトイレに逃げ込んでしまったという失態を犯したからだ。先に銃撃されたのが車智澈であるということを考慮しても、命懸けで大統領を護らなければならない立場の者として致命的な行動であった。

 車智澈は歴史上の人物としては否定的な評価を受けているが、私生活においては母親孝行であり、女性関係も清廉であったという長所が認知されている。

 暫く車智澈は、酒や女性関係だけでなく、金銭的にも清廉だったと言われていた。政治工作のためのカネは集めても、私利私欲のための不正蓄財はしていないというのが側近たちの証言だ。
 しかし、米国に移住した車智澈の妻子が巨額の財産を持っていたため、最近になって不正蓄財疑惑が浮上している。李厚洛イフラク金炯旭キムヒョンウク・朴鐘圭らと比較してマシだったというだけで蓄財はしていたのではないか、そうでなければピアノ講師だった妻が莫大な財産を持てる筈がないという見方だ。
 ただ、生前の車智澈が慎ましい暮らしをしていたことは確かなようで、妻が不当な贈り物を受け取った時は、怒って所有者に返したというエピソードも存在するほどである。
 結局、妻の一家が所有していた巨額の財産が、どこから出てきたかについては明らかになっていない。

参考資料

  • 金璡『青瓦臺비서실1』中央日報社 1992年
  • 鄭炳鎭『實録青瓦臺 궁정동銃소리』韓国日報 1992年
  • 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【
  • 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【
  • 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【
  • 趙甲濟 著・黄民基 訳『別冊宝島89 軍部!』JICC出版局 1989年
  • [역경의 열매] 박조준 14 ‘오갈 곳 없던 차지철’ 영락교회 묘지에 안장』국민일보 2016年11月16日
  • 나무위키 namu.wiki/차지철