2020年、10.26事件をモチーフにした映画『남산의 부장들(南山の部長たち)』が公開された。日本では、2021年に『KCIA 南山の部長たち』という邦題で公開されている。
この映画は、1992年に東亜日報社から出版された金忠植・著『정치공작사령부KCIA 남산의 부장들(政治工作司令部KCIA 南山の部長たち)』を原作としている。この本は日本でも翻訳され、講談社から『実録KCIA――南山の部長たち』という書名で出版されており、当サイトでも参考資料として大いに活用させていただいている。
しかし同書が実名そのままのノンフィクションであるのに対して、この映画は冒頭でフィクションであるという断り書きがなされている。
実際、登場人物名は一部を除いてほとんどが仮名であり、実在者の要素を取り入れて新たに作り上げられたデボラ・シムのような架空人物も登場する1MBCや京郷新聞の米国特派員を務めたジュリー・ムーン(文明子)の要素が盛り込まれている。ジュリー・ムーンは亡命中の金炯旭と一時協力関係にあったが、のちに不和となり、彼の言動を批判している。。“フィクション”という断り書きを入れることで、実在の事件であっても制作者側の解釈を自由に盛り込むことができるのだ。
陽の金載圭、陰のキム・ギュピョン
10.26事件が描かれれば、大抵は韓国内で物議を醸す。今回の批判的意見は、朴大統領暗殺犯である金載圭を美化して描いたというものが中心だ。
しかし私は、この映画を視て金載圭が美化されているようには思えなかった。決して美化されてはいないが、同情的な視点ではあったように思う。
私は、映画のKCIA部長キム・ギュピョンは、実在の金載圭とは別人であり、あくまでも独裁政権末期のような状況に置かれたKCIA部長の苦境と悲哀をテーマに描いているものと解釈した。ここからは、事件についての詳細を知識として既に得ている自分ならではの視点になるが――なぜなら、金載圭とキム・ギュピョンは全く異なる”性格”だからだ。
金載圭は、当時としては稀に見る裕福な家庭に生まれ、家族に愛され、きちんと教育を受け、多くの友人たちに囲まれ、本人も目立ちたがり屋でユーモアにあふれ、運動が得意で歌唱が大好きという典型的な”陽キャ”であり、むしろ忍耐強さに欠け、時には上にも逆らい、物事を自己中心的に考える傾向が強い人物だ。故に10.26は金載圭が能動的に起こした事件と言えるし、彼の気概は弁護団をも圧倒し、最終陳述で聴く者を感動させた法廷の場でこそ発揮されている。金載圭は元来、覇気のある人物なのだ。
本作の主人公であるキム・ギュピョンは、パク大統領の言葉に流され、警護室長とのパワーゲームを意識して、かつての盟友パク・ヨンガクを殺害に追い込んでしまう。この展開はリアル金載圭もさほど変わりはない。しかし、キム・ギュピョンはあくまでも重い立場と周囲の人間関係に翻弄されながら行動する人物として描かれているため、土砂降りの中、大統領と警護室長の二人だけの酒席が開かれている宮井洞に泥棒のように忍び込み(ここは情報部の私設なので、部長がハブられている上にコソ泥のごとく忍び込むのはおかしいのだが)、濡れ鼠で盗聴し、大統領の寂しい独唱に感化されて思わず涙を流してしまうような”陰キャ”として描かれている。
この映画での10.26事件は、キム・ギュピョン部長がパク大統領を暗殺し、陸軍参謀総長とともに車に乗り、行き先を中央情報部ではなく陸軍本部を選択したことをにおわせた場面で終了する。キム部長が逮捕され、その後絞首刑に処されたという件は字幕のみである。いわゆる”ナレ死”である。
陰キャのキム・ギュピョンでは、10.26事件の法廷場面までは再現できない。10.26公判における金載圭の最終陳述は聴く者を虜にし、彼を英雄に見せてしまうほどの威力を持っているので、キム・ギュピョンのままではキャラの不一致が生じてしまうのだ。
監督は金載圭の法廷陳述も無論知っているだろうから、この映画のキム・ギュピョンは、リアル金載圭とは別人として描いたはずだ。
ちなみに、実在の金載圭は5.16クーデター主体勢力ではない。むしろ5.16には全く加担せずに拘束された立場である。キム・ギュピョンはパク・ヨンガクとともに革命主体勢力で盟友関係とされているので、ここは5.16を計画し、金炯旭と同期であり、初代KCIA部長だった金鍾泌がモデルとして混じっていると思われる。この辺りも、金載圭や金炯旭を実名で描かなかった理由だろう。
パク大統領の呪文
この映画を観ただけでは、当時の軍事独裁政権の後ろ暗さは伝わりにくい。民衆も野党政治家もほとんど登場せず、大統領とその側近たちのみで展開されていく。軍事政権をテーマにした作品としては珍しく、拷問シーンは回想で触れられる程度である。
パク大統領は驚くほど弱気だ。確かに晩年の朴正煕は、妻を失ってから孤独で淋しい老人の姿を見せていたと言うし、判断力もかなり衰えていたと言われている。その辺りを取り入れているのだろうが、作中では大統領が妻を銃撃で亡くしたことについては全く触れられないので、なぜクーデターまで起こして政権を掴んだパク大統領が、あそこまで弱々しく自身で決断しきれない統治者になってしまったのかが分かりにくい。この人のどこにそんな革命主体勢力を導くカリスマ性が備わっていたのかと疑ってしまうほどだ。しかし、このパク大統領には別の魔性が備わっている。
「お前さんの隣りには私がいるじゃないか」
この台詞が魔法の呪文のように囁かれる。キム・ギュピョン部長にも、クァク・サンチョン警護室長にも、パク・ヨンガク元部長にも。
パク大統領は具体的にどうしろと指示は出さない。まず相手に「どうすればいい?」と尋ねるのだ。その後にこの呪文が囁かれると、相手は「私の意に沿うように、お前さん2朴正煕は側近に対して「임자(イムジャ)」という二人称を使っていたことが知られている。これはかつて夫が妻を呼ぶ二人称として使われていた。が判断して動いてくれ」という意味と捉えて行動に移す。そして、その行動によって思わしくない結果がもたらされると、責任を取らされ、失脚への道を歩むしかないのだ。
お前さんの隣りには私がいるじゃないか――普通、自身が主であれば「私の隣りにはお前さんがいる」になるはずだが、そうではないのがこの台詞の絶妙なところだ。
役者たちの繊細かつ凄みのある演技
10.26事件をモチーフにした『ユゴ 大統領有故(그때 그 사람들)』に登場する大統領は、大統領でありながら茶化された存在でしかなかったが、本作の大統領は一見地味な存在に見せておきながら、後からジワジワと存在感を表してくる。パク大統領演じるイ・ソンミンが賞賛されるのも頷ける。
イ・ソンミンのその他の画像を検索してもまるで別人で、少しも朴正煕に似ているとは思わないが、この映画でのイ・ソンミンは朴正煕に風貌がよく似ている(耳の形を変えているらしい)。
一方で、主演のイ・ビョンホンは実在の金載圭に少しも似ていないが、イ・ビョンホンだとは気づかないほどには別人に仕上がっている。私が記憶するイ・ビョンホンは華があるイケメンだが、作中のキム・ギュピョンはまるで冴えが無く、地味で糞真面目な雰囲気だけを漂わせる陰キャだ。クァク・サンチョン警護室長と怒声を浴びせ合い、取っ組み合う場面があるにも関わらず、陰キャを払拭できないままである。実在の金載圭にはもっと貫禄が備わっていた。”気概”は金載圭の特徴の一つでもあった。しかし、この作品の主人公はあくまでもキム・ギュピョンであり、金載圭ではない。なので、リアル金載圭に似せていく必要は全く無く、イ・ビョンホン演じる陰キャなキム・ギュピョンこそが完成形なのである。
この映画の主人公はパク大統領を暗殺したKCIA部長なので、モデルは金載圭に該当する人物なのだが、中央情報部長をテーマにしているので、金炯旭も含めて、その立場の絶対的権力からの凋落ぶり、困難さや悲哀などを主題としたのだろう。この映画の準主役は、金炯旭をモデルとしたパク・ヨンガクと言ってよい。彼もかつて、キム・ギュピョン同様に、パク大統領の呪文に掛かった一人だ。そして失脚し、自らの行動によって命を縮めてしまうのだ。
クァク・ドウォン演じるパク・ヨンガクは、リアル金炯旭に風貌を非常によく似せて来ている。金炯旭がしていたあの70年代ファッションを再現するだけで、ここまで貫禄を出せるのかと驚いた。もちろん役作りもあるのだろう。パク・ヨンガクは感情的で短絡的なキャラクターであるが、クァク・ドウォンは大げさな顔芸を用いない演技で、晩年の金炯旭――パク・ヨンガクの悲哀と孤独を醸し出している。
車智澈に当たるクァク・サンチョン警護室長の描き方は、ここでもステレオタイプのイケイケキャラだ。常に大声で叫び、相手を威嚇している。車智澈の迷言として知られる「カンボジアでは300万もの人々を犠牲にしたのだから~」という台詞も登場する。車智澈については、いつか異なる視点で描かれた新たな人間像を別の作品で見てみたいものである。
実際の画像と肉声挿入の意義
私は、あくまでも金載圭とキム・ギュピョンは別人として解釈していたので、最後にリアル金載圭の画像と肉声が流れたことに混乱を来してしまった。作中の陰キャなキム・ギュピョンからの流れで金載圭の最終陳述を流されては、前述のようにキャラが不一致になってしまうのだ。それゆえにあの全斗煥と金載圭の画像と肉声は不要だと感じた。
何しろ、あの聴く者を感動させてしまう最終陳述を一部だけとは言え紹介してしまったら、批判者から見ればやっぱり金載圭は美化されていることになってしまうだろう。
しかしながら本国・韓国では、若い世代は10.26事件を体験していないのだから、そこに触れる良い機会とも言える。何しろ他の方のレビューを拝見する限り、あの実写と肉声は評判が良く、あそこで鳥肌が立ったとか、余韻が抜けなかったという声も少なくない。私の場合はヘタに金載圭についての前知識があったがために余計だと感じてしまったのかもしれない。
「イアーゴ」とは誰か
ところで、「イアーゴ」とは結局誰のことだったのか。私は最初に「イアーゴ」の存在が示された時には、警護室長のことではないかと考えた。当時、車智澈青瓦臺警護室長は絶大な権勢を振りかざし、副大統領閣下と揶揄されていたからだ。他にも、李圭光チーム3朴正煕大統領直属の私設情報部隊のようなものが出てくるのかとも考えた。しかし余計な登場人物を出せば複雑になるだけだし、映画のテーマから逸脱してしまうから、それも無さそうだ。結局それは誰なのかと思えば、チョン・ドゥヒョクという説があるようだ。確かに、彼がパク大統領にサンデー毎日を届けて直接報告する場面がある。
李圭光の兄・李圭東が全斗煥の妻である李順子の父親なので、キム・ギュピョンが金載圭に金鍾泌を少し混ぜた設定であるように、このチョン・ドゥヒョクも全斗煥に李圭光を混ぜたような設定にした可能性はある。だとしたら、イアーゴ=チョン・ドゥヒョクであることも頷ける。
結び
この映画は決して韓国現代史を学ぶ教材にはならない。ストーリーやアクションを楽しむと言うよりは、重い立場に翻弄された人々の悲哀を表現する個々の役者の演技を堪能するものだという感想を持った。
それにしても韓国の役者は演技が巧い。日本の役者で顔演技ができれば上手い部類に入るが、韓国の役者は顔演技ができるのは当たり前だ。大げさな顔芸を越えて、微細に表情を変えられるのだから感嘆モノだ。
役者の演技が人物造形にマッチし、特にパク大統領の妙味には目を見張るものがあった。それだけに、実在の人物を茶化しただけの『ユゴ 大統領有故』を鑑賞した時のような後味の悪さは無い。
ただ、朴正煕支持者にとっては、パク大統領をあのように腹黒い人物として描かれてしまったことは納得が行かなかったかもしれない。