朴正煕政権の末期
金載圭は、中央情報部長に就任するや、コリアゲート事件収拾の他にも金炯旭の動向を注視しなければならず、野党工作などに追われ、米国との関係に神経を使った。
そんな中で、車智澈青瓦臺警護室長の越権行為による妨害を受ける羽目になり、金載圭部長のストレスは絶頂に達していた。
陸英修女史を銃撃で亡くして以降、朴正煕は政治的な感覚までも鈍っていったと周囲の者は話す。1978年末に金正濂が青瓦臺秘書室長のポストから退くと、車智澈警護室長を牽制できる者がいなくなり、朴正煕は”奸臣”と過ごす時間が長くなった。
側近たちに背かれ、妻を銃撃で失った朴正煕は疑心暗鬼にならざるを得なかった。晩年の彼は過剰な警護に囲まれ、偽の情報に振り回されていた。権力を持ち過ぎた宦官に目くらましされた皇帝のように成り果てていた。
親族の利権介入を絶対に許さなかった朴正煕も、母親を銃撃で亡くした実の娘に対しては厳格になり切れなかった。朴槿恵と崔太敏の関係やセマウム救国奉仕団の不正からは目を背けてしまった。この件の調査で、逆に朴大統領や槿恵嬢の怒りを買ってしまったことは金載圭を失望に陥れた。
金載圭自身が、10.26事件後、控訴理由補充書内で「崔太敏と令嬢の問題は、大統領を射殺した動機の一つである」と供述しているのだ。
車智澈警護室長とのパワーゲーム
金載圭と激しくパワーゲームを繰り広げた相手として知られているのは、尹必鏞ともう一人――青瓦臺警護室長の車智澈だ。
金載圭中央情報部長と車智澈青瓦臺警護室長の戦いは、全斗煥保安司令官をして「金日成との戦いよりも、味方同士の戦いの方が激しい」と言わしめるほどであった。
二人の対立が激化したのは、金正濂が青瓦臺秘書室長を退いて以降だという。後任の金桂元秘書室長は陸軍参謀総長出身で、政治も経済も分からぬ立場であり、元々温和な気質でもあったため、車智澈を牽制するには力不足だった。
古来より、権力者は側近同士に忠誠競争をさせてきた。特定の重臣に力を持たせないようにしながら、自身の権威を強固にするための常套手段であった。
朴正煕政権下では、中央情報部長と青瓦臺警護室長がたびたびパワーゲームを繰り広げてきた。過去には、金炯旭情報部長と朴鐘圭警護室長が激しく戦い、朴鐘圭は李厚洛情報部長とも戦った。
大統領に次ぐ強大な権力を持っていた中央情報部長は、事あるごとに更迭され、交代した。朴正煕政権下で、八人もの人間が情報部長を務めた。対して、青瓦臺警護室長は一度交代したのみである。警護室長は物理的距離においても、大統領と非常に近いところにいた。
車智澈は傲慢不遜な性格で、越権行為が甚だしかったために周囲からの評判は思わしくなかったが、朴大統領の”お気持ち”を汲むことに関しては人一倍長けていた。
車智澈の時代に、青瓦臺警護室長は次官級から長官級に格上げされ、非常時には首都警備司令部を指揮できるほどの権限が与えられるまでになっていた。
車智澈警護室長は毎週、首都警備司令部警備団・空輸団・警察部隊を集合させては査閲式を行ない、「副大統領閣下」と揶揄されるほどの権勢を振るったのである。
車智澈に傾く大統領
朴正煕大統領は、金載圭情報部長が上げてくる報告書を車智澈に回して、正確性を調査させていた。
1978年12月の選挙では、金鍾泌が忠清南道扶餘から出馬した。この時、金載圭部長は大統領の指示に従って、金鍾泌候補の支援者の名簿を作成して提出していたのだが、これも車智澈警護室長の手に渡っていた。車智澈が某政府高官に「選挙の時に扶餘に寄られましたね」と詰問すると、高官は飛び上がって否定したので、車智澈はその場で金載圭に電話を掛け、その高官の名前が記載されているのは誤りだから、もう一度調査し直して部長が直接閣下に訂正して釈明するようにと命令調で話した。
軍事政権下では、軍人時代の出身階級も人間関係に影響を及ぼしていた。金桂元は陸軍大将、金載圭は中将だったが、車智澈は中領で退役している。領官1左官に当たる階級級が将官級に対してぞんざいな態度を取っていたのだ。愚直な金載圭は、車智澈の度重なる越権行為を看過できず、衝突は必然だった。
白斗鎭波動
1979年2月19日、朴正煕大統領は与党・共和党の人事改造を行なった。この時、国会議長に白斗鎭が指名されたが、金泳三を中心とした新民党議員たちは、白斗鎭が地方区からの選出ではないことを理由に反発した。金載圭情報部長も、反発の多い白斗鎭議長の下での政治工作は難しくなると考えて、この人事は思わしくないと考えていた。白斗鎭は「警護室長どの」という手紙を送るほど、車智澈の忠臣として知れ渡っており、それが余計に反発を招いてもいた。しかし結局、3月17日に白斗鎭は議長に選出された。車智澈の意向が政治に強く影響を及ぼしていたことの表れだった。
その他の政治的人事においても車智澈からの指示があり、これが大統領の意思なのか、車智澈の意思なのか分からず、周囲の不信を招いた。
新民党工作で決定的な亀裂
野党・新民党工作の失敗は、金載圭と車智澈のパワーゲームが激化した象徴的出来事だった。
車智澈警護室長は、大統領直属の施設情報部隊による情報を握り、政治工作資金を使って対野党工作に介入し、中央情報部の足を引っ張っていたが、工作に失敗しても責任を取らなくても良い立場であった。
この頃には、秘書室や情報部の職員たちの間でも、情報部長が警護室長からいいようにあしらわれている様子を窺い知ることができた。金載圭自身がそれを気にしていたようで、わざわざ大統領からの信任を強調するようなことを口にしていた。
「昨日は日曜なのに、青瓦臺に呼ばれてさ、マクサイ2マッコリ(濁酒)のサイダー割りをどれだけ呑まされたか。今朝まで大変だったよ」
5.30新民党全党大会が終わってから一週間後、金載圭は朴正煕大統領に「責任を取って辞めさせていただきます」と申し出た。しかし大統領は「ちょっと待て。おまえさんだけが失敗した訳ではないだろう。そのままでいなさい」と慰留した。
弟・金恒圭への牽制
大統領からの親書
金載圭中央情報部長は、1978年10月19日付けで、朴正煕大統領から直筆の親書を受けていた。それは、弟・金恒圭に関わるものだった。
金恒圭は終生に渡って、この親書を保管していた。以下『ブレークニュース』に掲載された親書画像からの翻訳。
金載圭 情報部長 貴下
最近入手した諜報により、情報部長の側近および家族に関する件で通告するので、事実か否か調べてみた上で、措置を執り行なうように。
その1.情報部の監察室長という人が大邱啓星高等学校の同窓などを糾合して『78回』という集会を構成、会費を徴収して毎月ゴルフ場を廻っては親睦競技を行っているのだが、同会会長は金恒圭(情報部長の弟君)、副会長は監察室長とのこと。
◎意見:同窓会で集まるのは問題ないとしても、会長と副会長が情報部長の弟と情報部の重要幹部というのは第三者から見れば、どういう集まりなのか首を傾げる印象を与えるだろう。
その2.コンヤン企業代表のソン・ヨンヒョンという者は丁一權・金炯旭と近しかったが、米CIAの手先3原文には「앞재비」と書かれているが、「앞잡이」と思われる。走狗の意。だという評を受けて、銀行取引を中止されている4最後の一字が潰れており、解読できない。この者が情報部長の弟・金恒圭社長の後ろ盾を受け逃亡し、金恒圭社長はソン・ヨンヒョンの背後から積極的に支援したと云々
◎意見:事実確認はできずとも、部長の弟君(ソンジン企業会長)には身の処し方に少し気をつけるよう注意を与えるのが良いだろう。
(過去、金鍾泌君が情報部長時代に、彼の兄君5原文は「仲氏」で、二番目の兄を指す。である金鍾洛氏が財界経済界に度を越して介入し、物議を醸したことがあったので、参考にしてみるように)
以上、参考として通告する
1978.10.19
朴正煕
豪奢な情報部長官邸
金載圭が情報部長に就任した後にできた部長官邸は豪奢で、招待されたことがあった朴燦鉉文教部長官は「青瓦臺よりも立派なので驚いた」と感想を述べている。
金載圭情報部長は、金正燮第二次長補や局長たちの前でこのように話した。
「情報部の新しいビルの写真を閣下にお見せして説明したら、誰が謀ったのか知らんが、閣下が『情報部長は就任したかと思えば、皆こぞって建物ばかり建て直そうとするんだな』と仰った。私が詳しく説明申し上げて、『建設会社を経営している私の弟が工事を受注して儲けたという噂がありますが、事実ではありません。弟はデタラメなことを言われるのは嫌だから移住すると言っています』と話した。これからはどいつであろうと情報部長を務めてみれば分かると思う。私は三年もやったから、もう辞めてもいい。安全局長は誰の謀略か知っていると思う」
金載圭は車智澈による讒言によるものだと疑っていた。
親書に対する金載圭の見解
金載圭は、10.26事件の公判で次のように答弁した。
「警告親書を受けた事はありません。弟の不正に関する書信を大統領から頂き、『参考にせよ』と言われたことはあります。警告親書ではありませんでしたが、監査室長に調査を依頼して、大統領に結果を報告しました。その時に弟が、兄が公職に就いている間は事業を行なわないと話したことを大統領に伝えたところ、『問題もないのに何故そんなことをしたのか。君は公務員だが、弟は事業家なのだから』とおっしゃっていました」
朴大統領が注意を与えた対象は弟・金恒圭だけでなく、情報部の監察室長も含んでいたのだが、金載圭はその調査を当の監察室長に任せたことになる。金載圭は、情報部長指揮下の監察室長に任せた理由を「警告親書ではなく、参考書信だったから」と弁解している。
肝硬変の悪化
金載圭が肝硬変を患っていたことは知られている。残されているカラー写真や映像でも、彼の顔が黒ずんでいるのが分かるほどだ。
金載圭を連行し、取り調べを行なった申東基は、彼から漂う肝臓疾患特有の臭いに悩まされたようだ。
辞意を訴えていた金載圭
金載圭は一週間のうち五日は、19時から20時までに退勤している。早い時には16時台から17時台に帰宅していることもあった。ただし、彼は報告書を抱えて帰宅し、夜遅くまで目を通していたようだ。
午後にも一時間ほど睡眠を取っていた。体調が思わしくない時は、李東馥を特別補佐官に任命して決裁を代行させてもいた。彼の体は情報部長の激務に耐えられないところにまで来ていたのだ。
彼自身、10.26後に面会に来た身内相手に「俺は肝臓が悪く、生きながらえても七、八年の命だ」と話している。
軍人時代から朴正煕とは呑み仲間でもあった金載圭は、肝臓疾患を抱えたまま大統領と酒席を共にしなければならず、体調悪化に悩まされた。
新民党工作を行なっていたころ、金載圭は周囲に愚痴を漏らしていた。
「体が言うことを聞かないのに、閣下の酒の相手をしなければならないから堪らないよ。夜に閣下と酒を呑むと車室長は酒を一滴も嗜まないから、俺にばかり相手をさせる。閣下がウイスキーを注いでくれるのに体調が良くないと言って断る訳にはいかないし、酒を呑んだ翌朝には出勤するのもつらいほどだ。このままでは天寿を全うせずに死にそうだ。どこか静かな田舎にでも行って二年ほど休めたらいいのだが……」
部下が「健康が良くないので激務に耐えられないから辞めると大統領に話してはどうか」と進言したが、金載圭は「俺がそれを言わなかったと思うのか。言えば閣下から『一人でそんなに長生きしてどうするのか」と言われた。もちろん冗談の意味でだが……」と、深い溜息をついた。
金載圭を診察した院長の証言
金載圭は、ソウル大学病院の金丁龍教授の治療を受けていた。また、朴正煕大統領の指示もあり、国軍ソウル地区病院の金秉洙院長による診察も受けた。
1979年5月末から8月末には、弟・金恒圭の紹介で、生体研究院の卞澈麟院長から”氣”の分析による健康指導を受けている。金恒圭は遺書を書き記すほど深刻な不治の病に苦しんでいたが、卞院長の健康指導で快復したこともあり、兄の治療も頼んでいたのだ。
金載圭は既に十年余り肝硬変を患っており、病勢は深刻だった。卞院長が診たところ、「大河の如く流れる国運の中で葛藤し、怒りが溜まりに溜まって毒氣が満杯」の状態であった。
また、金載圭は右耳に難聴があった。本人が卞院長に語るには「十四歳の時に中耳炎を患い6オ・ソンヒョン著『비운의 장군 김재규』では十一歳の時に中耳炎を患ったとある。安東農林学校時代にも病で長期欠席をしていたので、その時期にも患ったのかもしれない。、それ以来耳がイカれてしまった」とのことだった。
金載圭の腕には七つの刺青があった。卞院長が理由を尋ねると、「義兄弟の契りを結んだ七人がいる」とだけ答えたという。
卞澈麟は、金載圭について「他の政府高官と比べて、独特な面があった。基本的に義理を重んる大人の気風を持った人だった」と話す。
院長の指導の成果で、金載圭は大統領と酒が呑めるまでに快復した。
自身の病が良くなったこともあり、今度は金載圭が湖南肥料社長時代に縁を結んだ李文煥7湖南肥料とアセア自動車の創業者に卞院長を紹介した。更に金載圭は「卞先生、閣下も健康が思わしくないので一度診て差し上げてください」と頼んだことがあった。
卞澈麟は金載圭が処刑された後も、彼の妻・金英煕の健康指導を行なった。
金載圭を変えた釜馬事態
1979年10月4日、金泳三の新民党除名処分が強硬可決されると、金泳三の地盤である釜山で学生たちが反体制集会を開いた。この学生運動に市民も加わり、数千人規模に拡大した。
金載圭情報部長、釜山を視察
金載圭を明確に変えた出来事が釜馬事態の現地視察だった。
1979年10月17日夜、金載圭中央情報部長は非常戒厳令が宣布された釜山に飛んだ。
デモが激化していた光復洞・南浦洞・中央洞を管轄する中部警察署で状況報告を受けた後に情報部釜山分室に戻ろうとしたが、出迎えの車はデモ隊に囲まれて警察署に近づけなかったため、金載圭は車まで歩いて行かねばならなかった。
商店街は一斉に閉まり、暗闇の中で喚声と催涙弾が炸裂する音が響いていた。
裏道を歩きながら、金載圭が「これでは駄目だ」と独り言を繰り返すのを随行員は目撃している。金載圭の目には、第二の4.198李承晩政権に反発した学生革命が近づいているように見えたのだろう。
朴正煕と車智澈の不穏な発言
金載圭は釜山から戻って来ると、直ちに「釜山事態は、体制への抵抗・政策不信・租税への抵抗まで重なった民乱であり、全国五大都市に拡大する見込みである」と大統領に報告した。
これを聞くなり大統領は激昂して言い放った。
「釜山事態のようなことが再び起こったら、今度は俺が発砲命令を下す。自由党の時は崔仁圭9李承晩政権当時の内務部長官。1960年に3.15不正選挙を主導。これに反発したデモ隊に発砲命令を下し、逮捕した学生たちを共産主義者として追い込むために拷問し、多くの死者を出した。5.16軍事クーデター後の革命裁判において、死刑判決を受け、絞首刑に処された。や郭永周10李承晩政権時の警務大警察署長(大統領警護室長に相当)。警察を動員してデモ隊を武力で鎮圧した。5.16後の革命裁判において死刑判決を受け、絞首刑に処された。が発砲命令を下して死刑に処されたが、大統領である俺が下したからとて誰が俺を処刑できようか!」
この発言に車智澈が追随するように言った。
「カンボジアでは300万人殺しても何ともなかったのだから、我々が100万200万殺したってどうということはありません」
この時の金載圭の脳裏には、4.19の時に李鍾賛も交えて、三人で酒席を共にしたことが蘇っただろう。
「銃剣は一体誰のためのものなのか。善良な学生たちを殺すために使うものではないだろう!」
そう言って、学生たちへの発砲に対して義憤に駆られて語り合ったではないか。
金載圭は「大統領の神経がおかしくなった」と感じていた。
金載圭の変化
金載圭の態度の変化を身近に目撃したのは、義弟11金載圭の妻・金英煕の妹の夫にあたる。の金鳳泰だった。金鳳泰はほぼ毎日のように南山の麓にある情報部長官邸を訪ねていた。
金載圭と金鳳泰の間では、このような会話がなされていた。
「釜山のデモはどうでしたか?」
「そうだな……あれはデモかね? 表現は悪いが、あれは民乱だよ」
「民乱とは、つまりは反乱じゃないですか」
「君がそんなことを言っちゃダメだ。そうだ、あれは民衆蜂起だ、民衆蜂起」
金載圭はこれ以降、雑談もしなくなり、固い表情で何かを一心に考え込んでいるようだった。人を遠ざけ、さっさと二階に上がってしまった。
金載圭の変化は、内縁の妻・張貞伊も同様に感じ取っていた。
金載圭は、白斗鎭国会議長との電話で「釜馬事態の背後は南民戦だという証拠が出た」と話したり、公的な会議で「首謀者は新民党・学生・スパイだ」と報告するなどしていた。報告書を読み上げる金載圭は朴大統領を見ることもなく、力なく視線を落としたままだった。その態度は曖昧で、事態収拾を図らねばならない情報部長としては心もとなく見えた。
一方で金載圭は、側近には「釜馬事態は長期執権に対する反感から起きたもので、背後組織はない」と、公的な場での報告とは全く異なる個人的見解を示していた。
金炯旭失踪事件
1979年10月7日を最後に、第4代韓国中央情報部長だった金炯旭が、パリで忽然と姿を消した。朴正煕大統領が暗殺される、わずか十九日前の出来事だった。
情報部長就任以来、金炯旭を黙らせることは金載圭の重要な仕事の一つだった。
金載圭は三度に渡って、金炯旭宛てに帰国を促す直筆の手紙を送っていた。しかし、ひとたび刃を向けた以上、帰国――穏便な和解はあり得ないことを、金炯旭は誰よりも分かっていた。彼が身の安全を保ちながら故国に帰還するには、朴正煕政権が倒れる以外になかった。
金炯旭は米フレイザー聴聞会において、コリアゲートの内幕を暴露し、更には回顧録の執筆を企てた。そこには、女性関係や人権弾圧など、朴大統領にとって触れられたくない件が記載されていた。
金載圭部長の立場としては、何としても回顧録出版を止めねばならなかった。
しかし、この回顧録を廻る取引の最中にも、金載圭は政権に批判的な発言をしていた。
「最近はなぜ先輩(金炯旭)が反体制運動をするようになったのか、理解できます」
取引は、双方にとって望まぬ展開となった。金炯旭が密かに残していたコピーが、本人の意図せず持ち出されて、日本の出版社によって公開されてしまったのである。
事実上、交渉が決裂したにも関わらず、金炯旭は回顧録の原稿を盾に金と旅券を自宅に持って来させるように要求した。
金載圭は怒り心頭に達していた。
「金炯旭、アイツはちょっと痛めつけてやらなければいけません」
金炯旭が最後に会った人物・李相烈駐仏公使は、金載圭情報部長とは個人的にも近い間柄だった。彼は、金載圭の弟・金恒圭と若い頃からの友人で、金載圭が3師団副師団長を務めていた時に副官を務めていた。また、金載圭が陸軍保安司令官時代にも、保安司令部に勤務していた経緯がある。
李相烈は、2005年に行われた調査で、金炯旭失踪事件に関して自身の関与は認めたものの、詳細については口を噤んだままだった。
金載圭は、10.26事件後の弁護士との面会で、金炯旭失踪について自身の関与を否定した。
結局、彼らは秘密を墓に持って行ってしまい、この事件の真相については明らかにならないままだ。いずれにしても、金炯旭の件は金載圭を窮地に追い込んだ事象の一つであった。
弟に”挙事”を匂わせた金載圭
金載圭は10.26事件から半月ほど前に弟・金恒圭と会って、深夜まで話し込んだ。
この時、金載圭は”挙事”を匂わせる発言をしている。
「李承晩大統領は退くべき時に自ら退いたが、朴大統領は絶対に自ら退くような性格ではない」
「家は兄貴だけのものじゃないよ。もし兄貴がそんなことでもしたら、俺たちどうなっちゃうんだよ」
事業家だった金恒圭にとって、とても首肯できるような話ではなかった。この日から10.26事件を起こすまで、兄は弟を遠ざけた。
金恒圭はのちに回顧する。
「兄は朴大統領を深く愛していた。”心中”という言葉がある。愛していた人が発展させた国が誤った方向に行かないように、やむを得ず殺したのだ」
遺された毛筆「自由民主主義」
金載圭は1979年に、次のような毛筆をしたためている。
「自由民主主義」
「民主民權自由平等」
「爲民主正道」
「爲大義」
「非理法權天12「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ」の意。近世日本の法観念を表すとされている。」
参考文献
- 趙甲濟『朴正煕의 마지막 하루 10·26, 그날의 진실』朝鮮日報社 2005年
- 趙甲濟 著・裵淵弘 訳『朴正煕、最後の一日』草思社 2006年 【】
- 趙甲濟 著・黄珉基 訳『韓国を震撼させた十一日間』JICC出版局 1987年 【】
- 金璡 著・梁泰昊 訳『ドキュメント朴正煕時代』亜紀書房 1993年 【】
- 金忠植 著・鶴眞輔 訳『実録KCIA――南山の部長たち』講談社 1994年 【】
- 『백두진 파동 (제66회)/제10장 유신독재시대』히스토리즈
- 『김재규, 박정희 살해는 우발적 살해 아닌 혁명살해!』브레이크뉴스 2020年2月28日
- 『10·26 당시 김재규는 화가 잔뜩 난 상태』시사저널 1993年11月4日
- 『그것은 김재규의 마지막 충성이었다』한겨레신문 2013年4月26日
- 『친동생이 바라본 박정희 살해범 ‘김재규’』사건의내막 2017年5月26日